中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
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生まれる、死ぬ ② 消えゆくもの、いまあるもの

目の前にあるものは消えてしまう。気がつけば、僕は消えていこうとするもの、消えかけているものに魂を惹かれすぎていて、身近にあるものに心を配ることがなかった。

ある日、僕はワン母に連れられて知人の家の葬儀に出た。老人が亡くなった。
ワン母の交友関係は広い。僕の知らない人がたくさんいる。葬儀に振舞われる食事を待つ人々の側を歩けば、僕を指して「あなたの息子ですか」と訊かれる。普通、ワン母くらいの「老人」は僕のような若者と一緒に歩いて行動することは少ないからだ。人々はよくワン母のVCDを好んで見るので、日本公演記念のVCDに僕がちらっと映っていたのを知っている。(⇒「雲南の映像事情」

家の門の側に肩掛けカバンを置いておく。死者の家の中にカバンを持ち込まない。死者の魂の一部を持ち帰らないために。

RIMG3165.jpg
祖父を失った少女
ワン母は白い上着を羽織った喪主に挨拶をする。
「立派ですね。あなたは老人をきちんと銀の山、金の山に送り届けました。とても親孝行なことです。死者もきっと喜んでいるでしょう。…」
それから亡くなったときの様子を訊いた。

ハンカチで目頭を押さえる喪主に、ワン母はしばらく賞賛の言葉を贈った。

惜しいですね、残念だ、とは語り掛けなかった。
死者が高齢の老人だったせいもあるだろう。

ワン母は「また一人ラムカーム(言葉・修辞)を知っている老人が「帰って」いった」そう僕に言った。


村にいると、死が身近にありすぎて、それを惜しむこと、惜しまないことに慣れてしまうのだろうか。それとも、「ガーム」という運命や寿命、仏教的な業を信じているからなのか。
女性たちの哀惜の哭きうたが棺をおいた居間から聴こえてくる…。

親戚の女性がやって来て慟哭に似たうたをうたう。うたはその人を個人的に惜しむ内容だ。
個人的なつながりから死者の温もり、優しさ、楽しい思い出をうたい、「あなたはいない」ことを口に出す。

弔問に訪れる客は年老いて寿命を全うした死者の家族を賞賛し、家族だけが老人の死を惜しむ。


かつては、哭きうたする女性たちは、死者のさまざまなことがら、持ち物、外見の特徴、言葉遣い、行動、性格、感情などを一つ一つうたいあげたという。

それは結婚式でよそに嫁いで行く新婦が、母親や生家を離れることを惜しむうた(哭嫁歌)と似ている。哭嫁歌では、娘は泣きながら家にある物、愛着のあるすべての物を自分の記憶にからめて歌い上げる。掃除するほうき一本から、家の柱、壁、包丁、お碗、お箸まで、さまざまなものを惜しんでうたったという。

女性たちの節がついた慟哭のうた声は、死んだことを自覚していない死者の霊に「死」を知らせる。また、弔問に訪れ死者を偲ぶ者たちの感情を汲み取った哭き手は、その様子をうたにして死者に聴かせている。


2年近く前、エン先生が亡くなったことを知らされ、僕は昆明に飛んだ。エン先生はすでに葬儀場に安置されていた。家には遺影だけが置かれていた。知人たちが次々と家を訪れる。皆が言葉にならない悲しみを心に押し込めて、家族に哀悼の意を表する。エン先生の父母も僕よりひとつ早い飛行機に乗って昆明に来ていた。

葬儀前のプライベートな集いだったが、空気は重く、エン先生の母はその静寂につぶされてしまいそうだった。悲しみにのみこまれてしまわないように、静寂を慟哭の歌で突き破る。涙をながしながら、多くの友人が訪れていることを、おまえは幸せだ、こんなに友人が集まる、なにももてなしするものがない、そう哭いてうたった。言葉が分からない漢族の人たちには、それはただの痛々しい泣き声でしかなかった。言葉に耳を傾ける僕らは、いくらか心が穏やかになる気がした。僕らはその言葉に乗る。独特のリズム、時間のなかで波に揺られるように言葉に乗って先へ、前へ、進んで行く。
(⇒さよなら、エン老師追伸 別れのあと

僕はエン先生を日本に招待するチャンスを、ワン母たちに譲った。僕はエン先生にはまだチャンスがあると思っていた。しばらくのあいだ、僕はそのことをひどく後悔した。何が先に消えてしまうのか、何が今に「ある」のかわからなくなってしまった…。
村にもどってからも、たまにエン先生の父母の様子を見にバイクを走らせた。エン先生がこの世を去って1ヶ月ほどは、知人がしきりに老人たちを弔問した。そのたびに、エン先生の母は涙を抑えきれず、たまらず哭きのうたを歌うのだった。

ただ単に泣くことは個人的な行為でしかない。ただ泣きじゃくりながら言葉をならべるのも、痛々しい。なぜだか、それでは分かち合えない痛みがあることを感じる。
しかし、うたなら、それが感じでは悲壮な声であっても、僕らはその言葉とリズムに一緒に乗って、悲しみを共有できる。そのとき、耳を傾ける僕らと、哭く人の心はつながる。


今年、僕はワン母と一緒にある盆地の村を訪れた。
ここで僕の親友が村長をしている。彼らは130年の歴史ある木造の上座仏教寺院をつぶして、再び壮麗な木造寺院を建立した。ワン母たちの住むムンコァン地域などではもう木造寺院は見られない。親友たちは寺院新築の儀礼を行なうことを決め、ワン母に「噂に聞く」「リックヤート」(自分たちの信仰実践を功徳として悠久な仏教歴史に位置づける創作仏教書)の執筆を依頼した。この地域の上座仏教の実践はムンコァンやムンラー地域とは違っている。だから別の地域では伝統として継承されているリックヤートの習慣を理解している人はいない。ここでは90歳の老人でさえ知っている人はほとんどいなかった。親友たちは噂を聞いて一部の老人の意見を聞いて依頼を決めた。

この村に僕がよく訪ねる老女がいる。由緒ある家で、かつて貴族がこの盆地を訪れると必ずこの家に宿泊した。そのため家屋には美しい木彫の机や、家の木造の壁にも精巧な彫刻があった。
もう90数歳で顔はしわくちゃで、よれよれの枝のような身体のおばあちゃん。老衰しても背の高いひょろっとした体躯だ。まだ記憶はしっかりしている。夫は若くして病気で亡くなり、息子も孫を3人つくってから病気で亡くなってしまった。今、家には嫁とハンサムな孫息子二人と働き者の孫娘がいる。僕はよく昔話を聞きにおばあちゃんを尋ねた。

去年、僕は帰国の挨拶に顔を見せると、おばあちゃんは「来年はまだ寺院新築のお祭りまで生きていますから、銀の粒を5粒持ってきてね。」と言った。
それから9ヶ月後、僕は約束どおり、小さな銀の粒を多めに携えて再開を果たした。

この銀の粒は新築の仏教寺院と仏像の開眼式に使う。ささやかな徳として、人々の祈りをこめて、ひっそり輝く銀の粒が寺院の柱の地中や、屋根の天辺に埋め込まれる。仏像にも、こうした銀の粒を埋め込んで「心」を吹き込む。

僕はワン母にこのおばあちゃんを紹介した。そして、僕は銀の粒をおばあちゃんに渡した。
おばあちゃんは、嬉しそうに、あみゃー、みやー! と感嘆した。
その様子を見て僕も嬉しかった。僕はもっと何かを言いたかったけど、言葉数少なく、気持ちを上手く伝えられなかった。

今回、この村を出る時、僕は高熱と不眠で体調が悪く、おばあちゃんと別れの挨拶ができなかった。

あのとき、隣でワン母が銀の粒を掌に広げるおばあちゃんに言った。
「儀礼で使う意外に、その他の粒はあの世へ旅立つお土産に、私たちの子供(僕のこと)があなたに持たせてくれました。どうぞこの銀の粒をあの世まで大切に持って行ってください。」

もしかしたら、僕が次にこの村に帰ってきても、もう二度とおばあちゃんに会うことがないかもしれない。
ふとそう思うと、とても切なくなる。

でも、もともと、別れの挨拶なんて、この世界には存在しないものかもしれない。

臨終が近づき意識がない人と、もう会話することは出来ない。
シャマンが死者の霊を送る…。
肉体が死したあとは、霊をあの世に送り届けるまで死者と会話が出来る。
矛盾しているような論理。

人は戻るべきところに、「帰る」だけなのだと語る。

じゃぁ、ここは、人間界は何のためにあるの?
そりゃ、楽しいことや悲しいことがたくさんあるからさ。酒も、ごはんもおいしいって感じられる。
あの世は平和だから何も感じないのさ。


いま「ある」ことに感謝しなさい、と老人が言った。とっくに結婚して家庭をもってもよい年頃の僕を見て、早く家庭を持ちなさいと言う。
僕がどれだけ背伸びしても、何をしても、老人や父母から見れば僕はいつまでも「私たちの子供」のまま。

消えそうなものはたぶん僕の命より先に消えるのだろう。もののあわれ。

「今あるものにもきちんと眼を向けなさい。」

なんとなく、その言葉の意味が分かりかけてきた気がする。
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