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旅 ― うごくこと

旅 ― うごくこと

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ある休日の昼下がり、多くの家族連れが春の陽気を楽しんでいた。公園のなかでアコーディオン奏者とエレキベース弾きのユニットが演奏していた。マイペースなほんわりした女性が道端で椅子に腰掛けてアコーディオンを演奏する。

最後の一曲に、旅という名の曲を演奏してくれた。…これから旅をする人へ、今も旅をする人へ。

その周りの空間には、草むらに寝転び談笑している人たち、とおりすがりで音に耳を傾ける人たち、道端にすわってものめずらしそうに演奏を聴く子供たち…、

木に身を寄せて木陰に隠れる人…。


ずいぶん前に体験した不思議な感覚を思い出した。

自分の行動範囲を意識しながら記憶を遡行していったこと。

今では、行きたいと思えば飛行機を乗り継ぎ、どこまでも行ける。旅に出ることに緊張することもなく、眼が覚めれば異国の地に到着している。空を飛んで、谷を越え、山を越え、そして海を越え、どこでも好きなところに行ける。
行動範囲はとにかく広くなった。

でも、そのぶん、行動範囲が広すぎて、その角を曲がったところ、あの木々の先、公園の向こうの出口、アパートの裏庭、貯水タンクの下、ビルとビルの隙間、細部に眼を向けること、足を伸ばすことはなくなった。

僕は眼を閉じて少しずつ、過去へさかのぼって行く。

世界は広いから、今だって初めて訪れる土地を歩くことは楽しい。それでも、「忙しい」と理由をつけて足早に目的地へ移動する。やがて毎日の規則的な生活が行動範囲を慣習化する。

通勤路、通学路で、その途中で、あの角で、急に自転車を乗り捨てて、駆け出して見知らぬ道を探検しに行く、そんな好奇心に蓋をしている毎日がある。

過去へ遡れば遡るほど、自分が行動していた範囲が狭まってくる。それに反比例して、狭い行動範囲になるほど、その範囲に何があるのか、どんな風景があるのか詳しく覚えている。

放浪、大学生、高校生、中学生、小学生、幼稚園、こども…

幼稚園くらいのころは行動する範囲がとても狭かった。それでもその範囲の中ではなんだって知っていた。
狭い路地も、ビルの隙間も、貯水タンクの下も、アパートの物陰も、藪の中も、公園の草むらも。

自転車に乗るようになって、遠くにいけるようになった。そのぶん、足元を気にしなくなった。
バスにのるようになって、景色を眺めるだけになった。
そして世界地図を拡げて見るようになった。


僕はタイ族の村に住んで、村の老人たちと暮らした。


老人は歩いて移動する。村の中のどこにどんな植物があるのか、あそこには何のオバケがいるとか、どこどこには何時になったら行ってはいけないとか、村人たちの昔話や、個人の記憶があちこちにちらばっている。

どこかに散歩に行けば、ある時間のある風景を見て、匂って、味わって、聴いて、過去の記憶を僕に語ってくれた。

“地元”に住む人たちは足元に広がる土を詳しく理解している。

いつだったか、僕はグーグルで見つけた航空写真をプリントアウトして持っていったことがある。
空から眺めた村の様子を、
村人たちはまったくわからなかった。

そもそも、地図というものですら、見方を知らない。
方位磁石も意味をなさない。磁石が東を指していても、太陽と月や民俗知で方向を探る村人にとっては、「東」ではなかったりする。


タイ族の老人たちがいうには、人の身体には120以上の魂があるそうだ。
わっと驚いたり、墓場で遊んでいたり、病気で寝込んでしまったりすると、魂の一部や欠片が抜け出てしまう(出ている)という。


人が亡くなると、シャマンが死者の霊を異界に送り届ける儀式をおこなう。
シャマンはまずはじめに、死者の分散した魂をかき集め、ひとつの魂に組み立て直すことからはじめる。

盆地に暮らしていた老人なら、川辺や山や、森や、墓場、友人の家、生家、家の中のあちこちの部屋、ベッドの中、箪笥の中、…。
死んだことを知らない魂は、あちこちでうごいている。

魂の一部や欠片は、
豚小屋でいまも豚の世話をしていたり、
牛小屋で餌の草を与えていたり、掃除をしていたり。
裏庭で薪をわっていたり、台所で料理をしていたり。

人が長い一生を生きている間に、どれだけの魂を落としてしまうのだろう。

今もいつか病気をしたときに僕の体から抜け出てしまった魂が、村のなかでうごいているのだろうか。

それもいい。

たとえ、僕が直接村の隅々を感じて歩き回ることができなくても、分散してしまった魂が、抜け出た魂の欠片が、あの遠い土地にいまもいるのだと、考えるだけで、少し幸せな気持ちになる。

そして長い一生を終えたとき、分散した魂がひとつにもどって対話ができるときが来くると考えたら、

うん、それもいい。

そのとき、村の土地の細部をしっかり見れなかった“僕”が僕の魂の欠片たちからいろんな話を聞けるのかもしれない。

縁起でもないそんな日の到来に、楽しみがひとつできた。




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2年前、ワン母たちがここにきて、たくさんのバラを喜んで楽しんでいた。
ワン母たちの魂の欠片も、この日本にいるのかもしれない。

コメント

縁起でもない、かな。
そもそも縁起でもない、というのは、どういう意味なんだろうね。

と、投稿テストしてみます。
モントットーネより

ことばの持つ力でしょうか。
発したことばどおりのことがおこってしまう。
とか

投稿ありがとうございます。
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