中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
身体の経験と魂の経験


濃密な時間を過ごした雲南の田舎から離れてから、日本で生活しても、時間は止まることなく過ぎていく。
目の前の仕事に追われて移動することも、感じることも、村での生活に比べると断然少なくなった。

1人暮らしだと、どうしても時々面倒くさくなって食事を外食して簡単に済ませようと、考えてしまう。
そこで思いとどまり、包丁を握る。
ひょうたん笛や楽器を演奏すること、料理をつくること、今の生活でできる数少ない「ものづくり」だ。
やっぱり、ものをつくることは、いい。生み出すこと、手で触れて、匂って、音を聴いて、味わって、感じることができる楽しさ。身体で感じることができるなまの生の経験だ。
IMG_2661.jpg

残暑が厳しい日本だが、昨日、僕は暗くなる前に博物館を出て、公園の中をすこし散歩した。
夏真っ只中に咲いていたひまわり畑に行ってみたくなった。

夏のある日、大きな木下のベンチに座る老人が、目の前に広がるひまわり畑を眺めていた。
あそこの景色がみたくなった。

ひまわりはすでに枯れて、背だけが高いまましおれた姿が無残だった。
まるで虐殺のあとに木に張り付けされた死体の群れのようだった。

こんな、想像力が何かの記憶のようにおもえた。

最近引っかかっていたことがあった。タイ族の村で聴いていたシャマンのうたのことと関係がある。
葬儀のあと、数日後にひらかれる死者の魂をあの世に送り届ける儀礼で、シャマンは一晩中うたい続ける。

うたは魂の旅路を実況生中継する。そのうたを聴く僕たちは、いつのまにか自分たちの魂も死者の魂とともに旅をしているという。

だから、

僕らがきいている歌は、直接脳が経験できない、身体が経験できない、魂の経験を媒介してくれいているのかもしれない。

なんだか、映画「マトリックス」のようだ。どっちが本当の「現実」なのか。
タイ族の死生観では、あの世に帰ると、これまでの記憶、つまり前世、何世にも転生を繰り返した記憶がよみがえるという。人間界にいる間だけ、記憶をなくしているというのだ。

うたを聴くこと。
それが僕たちの想像力をかきたてる。
ロックでも、ポップでも、何でも。

うたのなかの世界、うたのなかの空間。

うたに現れる想像の空間、それは身体のさまざまな経験を基にして、心で感じる空間だろうか。

異なる地域の、異なる民族のうたや、朗誦を聴くことも、それをただ聴くことはできる。
音楽として聴くことができる。

でも、もしも、僕らが身体の経験を共有し、僕がフィールドで長年経験したように、その経験をもとにして声で表される想像の空間を共有できたら、本当の異文化理解、他者理解に近づけるのかもしれない。

もちろん、文化が違っても、僕らも日本での身体の経験に注意深く過ごし、相手の文化の文脈に「変換する」コツを掴んでいたら、ある程度は想像の空間を共有できるのではないだろうか。


ふたたび、僕は雨安居を過ごすこの時期の村の生活を思い浮かべる。

老人たちがお経を唱えて静かに過ごす。
(そのお経は日本のお経とは全く違う。言葉さえわかれば、中身を知ることが出来る。ただし難しい韻文だ)
そのお経の録音を僕は聴いていみる。

僕の身体の一部の耳が経験する。
そして僕は眼を閉じて魂の経験を思い出す。
コメント
ありがとう
朝のひととき
すごく心が静かになった
ありがとう
ありがとう
 
 
2010/10/15(金) 10:05 | URL | 倭月(wacky)@DejaVu #-[ 編集]
Re: ありがとう
おひさしぶりです。

そういっていただけて、なんだか、じんわりと、うれしいです。

ずっとドタバタしていましたが、ちかいうち必ず遊びに行きます。
また演奏もしたいですね。
 
 
2010/10/16(土) 11:53 | URL | サトル #-[ 編集]
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