中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
音で触れる 音に触れる


音楽する、とはいったいどういうことだろう。
長らくひょうたん笛を演奏していても、いまだにその根っこの、さらにその先の何かが、わかるようで、わからない。

もうずっとCDを聴いていない。
日本に戻ってきたら、いやでもスピーカーの音の世界に浸ってしまうが、自分から音楽を聴こうという気にはならない。だから家にはテレビもラジオもおいていない。

日本を離れて暮らしてから、スピーカーの音の聴取を身体が受け付けない時期があった。
それも、ひょうたん笛を自分で演奏するようになってからだった。

今でも演奏でマイクを通すことに抵抗がある。
やはり、一番いいのは「生」音だ。

ライブを聴いていても、生の音の暖かさ、優しさ、柔らかさが、直に音を聴く僕を包み込んでくれる。

いや、きっと包み込むのではない。
音がそこから聴こえてくるのではなく、僕の身体のなかに鳴っている。
僕の身体のなかで動き、僕の心に触れる。

RIMG3023.jpg

音楽を聴いて感動すること。
それは音に触れる感覚と触れられた感覚だとおもう。

彫刻家が触覚を中心にすべてを知ろうとすることに似ている。
僕たちが彫刻を見たとき、僕たちの視覚は彫刻に触れている。
すばらしい彫刻は目で触ることができるものかもしれない。


「一番最初の感動」を大切にすること。
それは「触れる/触れられた」感覚を大切にすることだと思う。
そう、その感じ。

あまり考えなかったが、僕がひょうたん笛、フルスを教える人によく言うことが、
「はじめて音を鳴らすときの指の感覚を覚えてください」
ということだった。

初めて音を聴いた晩、昆明の飲み屋で、
僕は借りた楽器で初めて音を鳴らそうとした。
でも、そのとき実はなかなかきちんとした音がならず、苦戦した。
恐くて最初の音と心の触れ合いに時間がかかった。
エン先生の目の前で、僕は四苦八苦した。


そして、僕は初めて音を鳴らしたとき、指先から電気が走るような、それでいて優しく柔らかく暖かい風が吹き抜ける、撫でる感じがした。

あの感覚は今も覚えている。
純粋に心に壁を作らず、音に触れた瞬間。

いまでも、演奏をしていてたまにそんな瞬間がおとずれる。


好きな楽器というものは、恐れ多くてなかなか触れない。
アイルランドを旅して、イーリアンパイプに惚れ込んだ僕は、演奏者が触らせてあげる、と言ってくれても、
かたくなに拒んだ。

好きな人に触ることも同じかもしれない。
はじめて、手を握ったりすること。
男は赤ちゃんを産めないから、子供が自分の一部だということをなかなか理解できないと思う。

でも僕らは母親からできてきた。僕らは常に母に触れていた。
女性は子供を産む。
女性しかもてないすばらしい触覚。
赤ん坊が生まれてきて初めて「触れる」ものが何か、なんて関係がないことだった。
女性は自分たちの触覚から生の別の触覚を生み出す力をもっている。
だから、触覚にしても、おそらく全ての感性において、男よりも敏感に触ることができる。


音を聴くこと。

ひょうたん笛は恋の楽器だった。男が演奏する。女性は音を聴く。

男は触れることに臆病だと思う。
女性よりも鈍感だ。才能がない。

女性は音を聴いてより深く音に触る。
そして音を奏でる人の心にも近寄ろうとする。

僕はまだまだ音を聴く人に触られるのが恐い。
それでも、ときどき、小さな会場で音を通じて聴いている人と何かが通じる瞬間がある。
音で触り、
聴く人は僕の音をたどって僕の心に触る。
そんな感覚だ。


きっと、偉大な音楽家?が何故人を感動させるかは、
壁をつくらずに、音で人の心に触り、音を聴く人たちから触られることなのかもしれない。

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