中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
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知性と感覚

夏はうんと早起きな僕ですが、寒くなるといつもどおり眼が覚めても布団から抜け出せず、二度寝してしまいます。

布団のなかでももぞとしながら「音楽」について少し思いをめぐらしてみた。
常に答えがでない「楽しみ方」について。

神の存在と真理の発見を求めて洗練されてきた西欧の音楽の数学的な、知性による楽しみ方。

アジアでは、普段は伝達のために明確に意味をもった言葉が、旋律をともなう「うた」になるとき、僕らの頭にはいってくるのは曖昧な意味のつらなりの詩、感覚と想像で理解しようとする「楽しみ方」。


IMG_1729.jpg
さまざまな音楽理論を勉強して、様々な理論のなかの真理を積み重ねて、ひとつの曲を聴くことも、それはそれで楽しいのだろう。

音や「ことば」のなかに魂が宿るような考え方、そしてそこに絶対的な神はなくて、さまざまな神や精霊がいる。



まぁ、もともと僕がいっしょにうたやひょうたん笛を聴いてきたタイ族の人たちは、音楽のなかに真理を見出そうなんてしないし、そんな楽しみ方の別で悩む必要もないか。

そもそも音楽という概念でくくってはいけない。
だから、音階を分析したり、即興の歌旋律になにかの規律をみいだそうとしても、そこには想像や感覚の恣意性がつねにつきまとうから、意味のないことだ。

音はことば、魂だから、数量分析のように換算できない。
やっぱり、詩的な想像の空間を聴く人びと、うたう人びとと共に没入していける楽しみ方がいい。
そのためには、言語の壁は、あまりにも大きいと、改めておもうのです。


楽譜は音の世界を再現可能にする。そこに音が鳴っていなくても、さまざまなことを計算することができる。

タイ族のひとたちが朗誦する経典や文字も、声を発生するとき必ず旋律をよそおうから、楽譜ににている。
でもタイ族の文字は不完全だ。
言語に6つの声調があるのだが、文字には声調記号がない。だから一文字で6つの読み方ができる。
さらに、母音字はものによって2-3つの読み方ができたりする。
だから、一文字だけ書かれてもどれが真理であるか、書いた本人にしかわからない。
そのため、読む人は前後の文脈、押韻、音の響き、慣用表現などを想像しながら読み進める。

そこに旋律がうまれる現象は、きっと音楽が好きな人にとっては興味深い問題だと思う。

でも、朗誦者や聴き手の本人たちにとっては、なぜそのような旋律になるかなんてどうでもよいこと。
音・声にのることばを聴いて、そこに生まれる詩的な空間に深く深く没入し、想像の世界を膨らませること。


「よいうただ」
「みみにここちよい」
「こころにはいってくる」

僕もどうやったら、いつになったら、知性で理解せず、タイ族のワン母や人びとのうたを感性と想像力で理解できるようになるだろうか…。


IMG_1668.jpg 

こどもの感性や想像力はなまじ知性に抑圧されていないから、豊かだと思う。

あの子はなぜ、あそこで手をあわせていたのか?

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