中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
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観光の芸能と生活の芸能

雲南省に旅行に行ったことのある方なら、おそらく大理や麗江の名前をご存知かとおもう。そのなかで、音楽や芸能に興味を持っていれば、「洞経音楽」や「納西古楽」を現地で聴いたかもしれない。

洞経音楽は、道教、儒教、仏教の儀礼音楽や漢族の宮廷音楽が長い歴史を経て融合したグループ編成の器楽で、もともとは宗教儀礼において演奏されていたもの。雲南省や四川省の漢族のみならず、白族(ぺー)や納西族(ナシ)といった少数民族も演奏している。

ところで、今日はナシ族の「納西古楽」についてちょっとまじめに考えてみた。伝統は創られるというのがすでに定説になっているが、はたして僕らは何を「伝統」として、どのように受け止めればよいのだろうか。

「納西古楽」は古い音楽か、といえば、そうともいえない。「納西古楽」は80年代後半から麗江でナシ族の宣科さんが中心となってもともと儀礼や教養として演奏されていた洞経音楽を観光客向けに演奏し始めた。それからしばらくして観光客に説明しているうちに生まれた名称だった。
 宣科さんとても流暢な英語を話し、博識で機転の利くトークは観光客の注意をひきつけた。以前は本当に高齢の老人ばかりが演奏していたので、宣科さんの話が長いときや、自分の演奏の出番がないと居眠りしている老人もいた。宣科さんはそんなほのぼのとした演奏会を笑いを交えて紹介した。多くの外国人が宣科さんの家を訪ねて話を伺ったりしただろう。98年に初めて訪ねた僕もその一人だった。
 
 2000年を過ぎると国外の観光客だけでなく、国内の観光客にも注目をあびる。元来男性のみのグループで宗教儀礼や教養として演奏された洞経音楽は、完全に観光化し、伝統文化として表象されて、若者や女性の演奏者も加わるようになった。やがて、「納西古楽」として宣伝が始まり、ついには地元政府は2002年にユネスコの「人類の口承および無形遺産の傑作」登録に申請を試みる。
 これには、音楽研究者の方々は黙ってはいなかった。無形文化遺産登録をする根拠にかなりの問題があった(興味のある方はネットで検索するとすぐでてきます)。そこで、雲南省民族芸術研究所の呉学源教授(最近はご退職されたかもしれません)が2003年に《“纳西古乐”是什么东西?》という論文を書き、訴訟問題にまで発展した。
 内容は学術的見地から「納西古楽」が古楽とする根拠を批判している。僕もその学術的批判には賛成だが、表現がまずかった。「東西」っていうのは「もの」とか「やつ、あのやろう」みたいなニュアンスがあって、これをタイトルにしたことが間違い。文章表現にも不適切なものもあり、民族間の感情問題にもなった。結局裁判は、宣科さんの慰謝料請求は認められた。

 現在も、「納西古楽」という名称は使われている。観光のためには良い宣伝文句が必要だが、どうも中国では「伝統」ということばの用い方に非常に違和感を感じる。これはおそらく、日本は日本の文化背景があるので日本人からみた違和感ともいえるし、ほかにもこの話題ではアメリカ的文化価値観からみた違和感の表明も探せば出てくる。
 僕が演奏するひょうたん笛(フルス)も、何が「伝統」なのか、ネットやテレビといったメディア、さらには近年のいい加減な学術書、音楽解説書をみていると真実がどんどん隠されていくようで怖い。20年たたない曲や、つい最近作曲された曲が「伝統」曲と紹介される。タイ族やアチャン族、ワ族、ドァン族の生活から手を離れ、漢族や都市部を中心とする音楽界では奇妙な言説がめぐりまわっている。さらには、タイ族の若者でも、昔老人たちが演奏していた曲を聴いたことがないため、あれやこれが伝統曲だと紹介することもある。
 「伝統」という概念に似た中国独特の概念も、ちょっと奇異を感じる。最近よくとりだたされる「原生態」という概念だ。「ありのままのという意味になるのだが、その概念が意味している内容もかなりブレがある。ナシ族が演奏しているから真正で、そうでなければ偽物だ、みたいな考えもあれば、ナシ族の演奏している音楽は偽物で、もともとは漢族のものだ、といった議論。ナシ族の音楽はいろんな要素が混ざってるから「原生態」ではない、とか。
 一方、「原生態」をつくるための努力もはらわれている。少数民族地域で開催される原生態音楽コンテストや原生態音楽教育。ローカルの地域で原生態音楽がメディアによって宣伝されれば、その地元の知名度も上がる。そんなわけで地方政府もコンテストを主催して有能な人物を探そうとする。ただ、これを審査する人が西洋的音楽教育を受けた歌舞団出身の少数民族幹部だったりして、西洋音楽的な価値基準が必ずバイアスになる。

 僕は調査地で開催された原生態音楽コンテストにワン母を誘って参加したことがある。ワン母も政府がどんな「音楽」を重視するのか興味があった。ワン母は自分たちの力で芸術団を結成して、民間で様々な芸能活動を行っている第一人者だ。歌舞団のように対外的な活動とは異なり、あくまでも内側の、タイ族のための芸能を演じている。そのワン母がコンテストに参加した。さて、結果は…? 「伴奏がない」ということで却下された。
 コンテストに合格したのは、即興でもなく、あらかじめ歌詞を書き、本来なら合唱などされない掛け合いうたを合唱形式にし、演劇的要素を加えた「新しい」タイ族のうたが「原生態」音楽として入賞し、雲南省レベルの大会に参加した。そのほか、若手の歌舞団の歌手が西洋的発声方法でうたをうたう。楽器はもちろん改良され、西洋音階になっている。「原生態」という内外のまなざしでは画一化されない価値観が広がっている。そして、『西洋的音楽センス』がひとつのバイアスになっていることは確かだった。

 生活の中ではぐくまれてきた伝統音楽は消えることもあれば、再生することもあり、変容することも当たり前だ。しかし、こうした錯綜した状況はどう考えたらいいのだろうか。「伝統」や「原生態」という概念だけが先行して、いろんな思惑がからみあう。学者はただこの状況を論文にして、国家イデオロギーや政策や民族問題や経済の視点から考察するだけなのだろうか。この世界に正しい知識、間違った知識という区別ができるのかどうか。歴史は創られるし、こんな世界に真実があるというのだろうか。
 もし、真実があるとしたら、一切の歴史や起源や言説を捨て去り、ただ音楽を聴くこと、ただ音楽を楽しむことだけ、そこにうまれる感情が真実なのかもしれない。でも、それすらも、生活や文化に育まれた感性が受け皿だから、僕らは何かのしがらみから自由になることは難しい。原初的な感情と感性に素直になって、そこから自分なりの音楽を創り出していくこと、自分なりの音楽の楽しみ方を編み出していくこと、そんなことが必要なのかもしれない。
 
 そしてもうひとつ、以前、石原慎太郎都知事が、説明の必要な現代芸術なんてガラクタだ発言がありましたが、それも一つの正しい意見だとおもう。音楽も最初に説明ありきではなく、音楽そのものが僕らに呼びかける、あるいは呼び覚ます力を感じることが必要だ。よく引き合いに出されるデュシャンの『泉』を初めて(写真で)見たとき、僕は衝撃を受けました。もちろん、芸術家が結果として形として表現する世界は、よく思考されこねられて現れたものだけど。それを鑑賞者にどのように「感覚してもらうか」を予見することも芸術家の仕事であるべきだとおもう。たとえ意識する相手が神や精霊、キュレーターであっても。
 鑑賞者を意識しない芸術はありえないのだから。感じることを予見して生み出された芸術は、感じる我々に強い感動や衝撃を与えてくれて面白い。
 
 僕の今の考えは、受動的に芸術を鑑賞していてはいけないということ。積極的に自分から参与していくこと、感じること、そこから自分が抱い感性的・知的欲求に従って自分の手でその歴史や知識を紐解いていくこと、でしょうか。結局万人に受ける答えは見つかりません。
コメント
歴史に名を残さずに消えて行く「ほんもの」っていっぱいあるよな。惜しいようでもあるけれど、そんなものなのかもしれない。今、ほんものにであることがやっぱり一番幸せなんだろうね。
 
 
2011/01/20(木) 19:16 | URL | 亮介 #-[ 編集]
うん
面白い。が、願望と分析が中途半端に混ざり合っているように思える。

丁度内田樹先生のブログで似たような話を取り上げている。
http://blog.tatsuru.com/2011/01/20_1253.php
 
 
2011/01/21(金) 09:57 | URL | 小林 #-[ 編集]
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