中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
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間(あいだ)にあるもの ―ひょうたん笛と葫芦絲(フルス)の狭間で揺れる人びと ②



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タイ族のひょうたん笛は、中国少数民族を代表する楽器「フルス(葫芦絲)」に発展した。
この発展が意味しているのはなんだろうか?
それは、村と外の世界を繋ぐネットワークの拡がりだろうか…。

(おさらいになりますが)
すでに村では、かつて恋愛に用いられたという習慣はなくなり、今ではその伝承と楽器製作の技術と知識、そして伝統曲が残るだけだ。
一方、商品として売られる楽器はタイ族の手を離れてより広い中国全土で販売されるようにり、VCDやCDは大量に出版され、学校教育にも取り入れられるようになった。
時がたつにつれ、フルスはどんどん広い広い世界のなかで流通する。

村の楽器職人は外部の都市の職人や販売業者の収入と比べたら少ないので、彼らは構造的な弱者になる。
しかし、ローカル地域では経済収入が多い方だ。彼らの村での生活は格段とよくなった。
例えば、同じ職人でも銀職人はフルスより手間隙をかけて銀細工を作っても、収入はほとんどない。それは買い手がすべてローカルの村人達だから、下手に料金を引き上げることができないのだ。職人が芸が非常に細かい一対の銀の腕輪をつくるのに、最低2日はかかる。それでもらえる手間賃は40-50元だ。フルスなら、一日で最低3-4本は作れて、1本につき100元くらい稼げる。もちろん、村人が欲しいといってきたときは、職人は人間関係を考慮して安く譲ることはある。
こうして、外とつながりのあるフルス職人は経済的に地元の人々しか相手にできない村の職人よりも稼ぎがいい。


フルスは全国的に流行し、全国統一の検定試験も実施されるようになり、あちこちでコンテストも開催されるようになった。素朴な音色は多くの人々の心をつかんだ。雲南省ではどこにいってもフルスが売られている。フルスのVCDやCDもどんどん出版される。

ひょうたん笛を改良し、フルスとして全国に普及させたのはエン・ダーチュエン先生の功績だ。
小刀ひとつで失敗と借金を抱えながらフルスを伝えた。一人の農民だったエン先生は苦渋の決断を迫られたことが何度もあった。そして、コネ社会の中国で成功するためには、とにかく多くの企業家や役人達と関係を築きあげる必要があった。

エン先生は有名になった。お金持ちになったんじゃないかって、皆が言うが、先生が亡くなったときに残っていたのは借金だった。
楽器の利益はエン先生と契約した企業に食われていた。

エン先生のフルス制作の技術も、長い格闘人生のなかで、しぶしぶ他人に教えなければならないことが多かった。
だから、先生のもとに弟子入りしてきた中国人のほとんどが、エン先生の下でひとしきり技術をマスターすると、自分達で楽器を売り始めたり教室を開く。競争社会だからそれはいいのだが、ひどいのはエン先生を卑下するような人たちがほとんどだったことだ。恩をあだで返される厳しい環境のなかで先生は格闘していた。

僕がエン先生の故郷をたびたび訪ね、ずいぶん前にエン先生の叔父にあたる老人に知り合ったとき、その老人の警戒心が解けなかった。老人は決して、ひょうたん笛の「リード」を造る姿を僕には見せなかった。何年か経って、老人は僕に言った。

「漢族は大切な知識をあっという間に盗んでいく。フーバオ(エン先生のこと)はあれだけ有名になったけど、周りを見てみろ、ヤツから盗んだ技術で金儲けしている漢族はごろごろいる。ヤツは有名になったけど、ちっとも金持ちになんかなっていない。」

エン先生亡き後、エン先生のもとで修行していた多くの若者たちが自らの道を進み始めた。
しかし、その前途は多難だ。
エン先生が苦労した10数年前のあの頃となんら変わってはいない。州政府がどれだけ梁河県を「葫芦絲之郷」(フルスの里)に認定し、無形文化遺産や伝承者の認定をおこなっても、しょせん、政府のお墨付きなど競争が厳しい市場経済のなかでは役に立たない。
彼らもまた先生と同じく、コネをつくるために格闘している。

「エン・ダーチュエン」は漢語で書くと「哏全」。「哏」の読みは実際は「gen」だ。タイ族語の[ngeun]「銀」の当て字だ。しかし、エン先生はどうしてか「グン」とは読ませず、「エン」と読ませていた。たまに漢字も「恩 eng」をつかっていた。


エン先生の自伝が2008年に出版されている。

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胡蔷,倪国强 著 2008《葫芦丝王--葫芦丝制作演奏大师哏全的音乐人生》宏民族出版社。

内容はライフヒストリーを基盤にしているが、かなり脚色されている。この内容が100%事実ではない。
僕との出会い話も数ページをさいて収められている。

作者の二人はエン先生を誇りに思っていた。二人の作者は、エン先生が徳宏州から輩出された文化人として、不屈の精神を持った一人の農民として、フルスを守り続けた芸術家として、人々から尊敬を受けるべきだと言っていた。
そして、政府ももっと真剣にエン先生や伝統文化の継承と発展に取り組むべきだ、そのきっかけになればいい、そう言っていた。

その目的は果たされることはなかった。
正統性そのものであるエン先生は、徳宏州で開催された第1回フルス文化芸術祭においても、ひどい扱いを受けたのだ。その芸術祭に、エン先生を称えることばもなかった。芸術祭の顧問、企画者として名を連ねるはずだっただが、…昆明のある企業がスポンサーとして役人達を買収し、エン先生の名前は消されたのだった。


僕は、エン先生の悔しい顔、怒りに満ちた顔、あきらめのことばを、今でも覚えている。

フルスがどれだけ世界になを轟かせても、フルスを受け継いできた老人達、フルスを発展させようと奮闘する若者達には、何の恩恵もないのだ。

つづく
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