中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
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音のある世界と音のない世界


音の世界を、
タイ族のシャマンが語る。シャマンが憑依儀礼において「うた」をうたいながら異界について語る。

僕達の人間世界には音が存在する。僕は音を聴くことができる。

僕達が行きたいと思っても行けない、見ることもできない異界にも、音が存在する。でも、僕はその音を聴くことができない。
この世界で鳴り響く音は、一種のエネルギーだ。空気の振動が耳で「聴こえる」と音になる。

もちろん、音は肌でも「聴くこと」(感じること)ができる。重低音の迫力のあるサウンド。そして耳では「聴こえない」が肌では「聴こえる」ハイパーソニック・エフェクトと呼ばれる超高周波音だ。

※ 去年、機会があって、世界に数台しかないダイヤモンドを用いたスピーカーでハイパーソニックエフェクトを聴く機会がありました。初めは半信半疑でしたが、ハイパーソニックがある音とない音は、全く違った。より深く立体的に、そして質量まで体感できるような音だった。この分野はすでに多くの研究成果がでており、ハイパーソニック(もちろん普通の音も)は耳で聞くと同時に身体の皮膚で感じることが証明されている。

じゃあ、僕らが普段聴くことができない、異界、あの世で鳴っている音とはなんだろうか?

人間界の人の声や音は、一定の手続きを経ることで異界にまで鳴り響くという。だから異界に帰った祖先は子孫の願いや嘆きを聴くことができる。
しかし、異界で鳴り響く音や祖先の声は、一般人である僕らには聴こえない。
そこで通訳が必要になる。それがシャマンや霊媒だ。

シャマンや霊媒は特殊な能力によって身体を変化させ、異界と人間界をつなぐ力を発揮することができる。
シャマンや霊媒たちの語りに耳を傾け、老人達の語りや生活の動作を眺めていると、なんとなくではあるが、聴こえない異界の音がなんであるのか、その輪郭をおぼろげながらに想像できる気がする。


今回はちょっとタイ族文化の文脈を離れてみたい。(タイ族文化での文脈で音を考えるのはまた別の機会)
僕が個人的に異界の音の輪郭を想像するひとつのきっかけは、「手話」だった。

生得的に音が聴こえないと言葉を発声することが難しい。だからコミュニケーションには手話言語を用いる。手話を少しでも習ったことがある人、触れる機会があった人なら、あの感覚を知っているだろう。
日常生活で僕達が使わない部分の視野が、ぐんと広くなること。そして奥行きがふくらむこと。

手話話者がどれだけたくさんいて「話」をしていても、僕ら手話を知らない健聴者はそこに鳴り響く音、鳴り響く言葉を聴くことはない。


手話の拍手を知っているだろうか?
両手を挙げて手のひらを振る。お星様が輝いているみたいに、そんなイメージで。

とっても感動して拍手している人は手をぐんと高く上げ、広げ、パワフルに手を「かがやかせて」いる。
その拍手がたくさん鳴っている場面を想像してほしい。
音はないが、たくさんの拍手が鳴っている。割れんばかりの拍手。
ただし、そこに耳で聞く音は、ない。

それでも、一人一人感動の度合いがあって、表現も微妙に個性があって、ひとりとして同じ拍手の音が鳴っているわけではない。目の中に拍手が飛び込んでくる。同じじゃないバラバラの、割れんばかりの拍手が目に飛び込んでくる。
無音の空間で、空気が揺れている。空気が流れる。
僕は鳥肌が立った。


異界の音は僕達には聴こえない。ろう者に僕達の音は聴こえない。でも僕達は音のサインを見ることができる。微妙な振動という音を肌で感じることができる。

きっと、音を耳で聴くことは問題じゃない。
音を目で見てもいい。目で見たものから音を想像したっていいじゃないか。肌で感じたことから音を想像したっていい。

頭で想像する数秒すらもったいないなら、そのまま感情のままに感じればいいと思う。
たとえば感動するという悦びの感情は、音を聴いた時でも、絵を見たときでも、美味しいものを食べた時でも、手触りのよいものに触れたときでも、芳しい香りをかいだときでも、同じ感動という感情が心にわきあがる。
鳥肌が立つような、ゾクゾクするあの感情。

だから異界の音は、ただ耳で聴くのではないのだろう。そもそも音のエネルギーが違う。耳で聴こえなければ身体全体で、あるいは心を開いて感じればいい。

そんなことを思った。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

今年3月の中国雲南省昆明市で開催された第5回雲之南YNFEST(ユンフェスト)でのこと。

僕は毎回なんだかんだで手伝いをしている。
今年は、見ているだけでほんわかする、とてもかわいいカップルの蘇青(スー・チン)と米娜(ミー・ナー)の新作もあった。

彼らは北京でレストランを開いた。従業員は全員ろう者。
彼ら自身は健聴者だが、中国の手話言語を使える。
彼らの作品はろう者を取り上げたものが多い。

代表作は、山形ドキュメンタリー映画祭でも上映された、
『白塔』
http://www.cinematrix.jp/dds/2006/08/post_3.html
(山形映画祭のページより)

そして、今年上映された新作の、
『手語時代』(手話の時代)
http://www.mask9.com/node/23364
(中国語の概説)

どれも僕の好きな作品だ。

今年の閉幕式では、僕がひょうたん笛(フルス)を吹いて、彼女達が手話で詩を朗読した。
ろう者のこと、手話のことをもっと理解してもらいたいという二人の熱い情熱が、僕は好きだ。

ちなみに、中国の中央テレビ局の数少ない番組に、最近になってようやく手話の同時通訳が、片隅に、小さく小さく見えるようになった。しかし……それを拡大しても、ろう者は理解できないという。あまりに適当な手話らしいのだ。
それと、中国には手話の方言が無数に存在する。



※ ※ ※ ※※※※※※※※※※※※※


昨日2011年7月28日、国立民族学博物館で非常に興味深いワークショップが開かれた。

第20回国際歴史言語学会(ICHL2011) 国際ワークショップ
手話の歴史言語学
―データベースの構築と一般歴史言語学における展開を目指して―
http://www.minpaku.ac.jp/research/pr/110728.html


たくさんのろう者が来ていた。プレゼンテーターが海外から来られた方が多かったため、発表は英語が基本。
日本語同時通訳があり、ステージの両側に英語手話と日本語手話の通訳が立っていた。日本での開催とあって、ステージの大スクリーンには発表者のパワーポイントと日本語手話の通訳さんがリアルタイムで映されていた。

スカイプを使ったアメリカの研究者の発表もあったが、残念ながらインターネットでの生放送はなかったようだ。こういうワークショップやシンポは是非ユーストリームなどを利用して生放送で放送すればよかったのに…ちょっと残念だ。

なかでも考えさせられたのは、そして感動したのが、香港中文大学のウッドワード教授の発表だった。
東南アジアにおける手話言語の危機的状況と、保護と発展への取り組みだ。

タイやベトナム、インドネシア、カンボジアには複数の手話言語がつかわれているが、国家による普及努力がないので、その7割が消失の危機にあるという。

※ 手話通訳者の数をみても唖然とする数字だ。参考に、
「カンボジア4人、ネパール40人、フィジー15人、フィリピン964人、香港2人、シンガポール39人、インドネシア0人、スリランカ2人、日本18,161人、タイ50人(すべて全国人数)」[小椋武夫]
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n311/n311008.html
※ 東南アジアの手話のなかには、口頭言語の文法はSVOなのに、手話ではSOVの形をとるものもあるという。


発表の最後に、ウッドワード教授が参加者に対して呼びかけていた。
手話言語を守りたい、東南アジアで手話話者の権利を守りたい、興味関心のある方は是非協力して欲しい、と。
くわしく言っていた内容は忘れてしまった。でも、その熱のこもった発言に、参加者は盛大で尊敬のこもったあの「拍手」をウッドワード教授に送っていた。

僕は感動して、鳥肌が立った。

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