中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
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やさしいことばの魔法  ①

うつらうつらとまどろむお話の世界のなかで、眠りにおちていくあたたかさを覚えているだろうか。

お話の世界にのめりこむと、日常のいろんな拘束から少しずつ離れて、想像の彼方へと入り込む。
お話の内容を想像しながらも、お話の世界の、語られないことがらも、僕たちは自由に想像することができる。語りの世界のなかでまどろんでいるあいだ、誰にも僕の想像は邪魔されない。

日常の会話では、目の前の現実をことばにしながら、時に自分のために勝手なことを言ったり、騙ったり、人を傷つけたり、毒づいたり、むしゃくしゃした気持ちを言えずにことばを飲み込んだり、ことばを選びながら、あるいは何も考えずに、だらだらとことばを口から流す。

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タイ族の村では、いろんなことばがあった。
僕らの社会と、そう変わらないことばだ。
人の悪口もあれば、目の前や迫り来る絶望を口にすることも、その時々の陽気な笑い話も、希望を話すことも、家族の心配事を話すことも、お世辞を口にすることも、やさしい挨拶や、人を褒めることもある。

老人たちと話すことは楽しく、そして切ない。いろいろな語りがあった。
語りの話の時間は、いつも過去のことだ。語りは決して今起きていることを語らない。
語りは常に悲しい記憶、楽しい想いで、昔話、伝承、そして伝説などを語る。
語りがはじまると、すぐに語り手と聴き手は日常の時空間を越えていってしまう。

もちろん、実際にあった戦争や歴史の話は、若者にとって、なかなか今の時空間をこえられないこともある。例えば、戦争を語らなくなった日本の老人と若者の関係。アジア諸国と日本の関係。
本当だったのだろうか? そんな疑問をもつと、あっという間に語り手と聴き手の断絶が生まれる。
語りにしたい人たちと、まだ語りにしたくない人たち、いまも続く現実の描写として話す人たち、騙りに使用する人たち、と、歴史の話は難しい。

職業柄?、人びとの語りが嘘か本当か、その評価を僕らはおこなわない。
僕は熱心に不思議な語りをたくさん聴いた。

日本なら、馬鹿じゃないの、といわれるような話が多い。
精霊の話や宗教の話は、日本ではどこかきな臭く、多くの人たちが無信仰を主張しつつ、神社にお参りに行ったり、葬式では念仏を聴く。その人の語りを聴く以前に、組織やどろどろしたお金、政治を想像してしまうからだろうか。僕自身も、日本の現実生活では身構えてしまう。企業も宗教のようであったり、宗教が企業のようであったり、見分けがつかない。



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さて、
タイ族のいくつかの村の上座仏教寺院にもお坊さんがいる。日本と変わらない風景をみる。
戒律の厳しい上座仏教であるにもかかわらず、僧侶は夜中酒を飲むことも、夕食をとることも、女性にふと触れることもしばしば。・・・ばれている。
僕が「一時出家したい」とつぶやいたとき、老人たちは「なぜ」と、どこか猜疑心をもったまなざしと口調で問いただした。
「世界には、ザオ・ミェット(宝の僧)は千人にひとりしかいないのだよ」という。
「あとはみんな偽物さ」と。
彼らにとって僧侶になることは、世俗を捨てた完全な聖者、仙人のような生を生きることが前提だ。

そう話す老人たちだが、儀礼では、僧侶たちをたくさん招いては、ありがたそうにお布施をしたり、深々とお辞儀をする。

老人たちは言う。
「わたしたちは別に人としての僧侶を敬うのではないよ。仏を信じるだけだ」と。
「お布施は僧侶にたいしてではない、仏に対してだ。最近の僧侶はお布施を自分のものだと勘違いしているけどね」
彼らは僧侶を本当のところ信じていないのかもしれない。だから、お寺に僧侶がいない村がほとんどだ。
「お金がかかるだけで、やっかいな問題を生むだけで、めんどうだ」とも言う。
だから、老人たちは、ただ、仏像の前にあつまり、自分たちでお経を唱え、一輪の花を捧げ、僅かな供物を捧げて、自分のこころを何かにむけて示す。
「仏と、経典、戒律、そして父母をうやまうことだけだ」

仏教の話をするとき、老人はよく物語を語る。
そして、時々、語り尽くせぬことばは行動で示す。
帰依心を示すために、長年貯蓄した財産をすべてつぎこんで行う盛大な儀礼は、彼らが語りつくせない物語の世界を生きる時空間だ。
たとえそれが村の隣人から仲間はずれにされないための、うわべだけの儀礼かもしれないとしても、「仏に見られている」という恐れと尊敬の念は、どこか、こころの片隅に残っている。儀礼の最中だけは、主催者は日常生活や自分の中のいろんな矛盾を越えて、とりあえず物語の世界の中で生きる。
物語の世界では、筋立てに沿うかぎり、物語をどう生きるかは自由で、誰もが平等だ。そして、その物語の経験と「なにか」を、人びとは共有している。

つづく
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