中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
やさしいことばの魔法 ②


僕はうたを聴くのがとりわけ好きだ。

即興で大の大人が、老人が、笑いながら、うたを掛け合う。

男女の恋をモチーフにしたうたでも、うたの場は無礼講だと、若者や貴族や、理想の人間になりきってうたう。
さらに、うたの相手を美化したり、相手をその人として見なすよりは、別の人格をもった人として扱う。
そんなうたにはルールがある。韻を踏んだり、メロディーをきちんとつくること。
そのルールのなかにいるかぎり、人は自由にうたの世界を生きる。
内容は昔話や物語よりも、いっそう現実的なことがらと関係しているのに、そこでは笑いが絶えない。
ときどき、あまりに現実に近すぎて、相手を怒らせることもあるけれど。

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若者が聴くタイ族語のロックやポップも、物語の世界に似ているのだけれど、即興うたをうたい、聴く人びとにとっては、「わからない」世界だ。
そこは、ルールが弱くて、どこか日常会話と同じで、あまりにも現実味がありすぎるからなのかもしれない。ただおしゃべりのように話していることと大差がないのかもしれない。
若者は現実と照らし合わせながら、ロックやポップを生きるけれど、僕にとってもそこはどこか一方的だ。

即興うたの世界は物語と同じで、まどろみの夢の世界のようだ。
現実のいま=ここにある時空間を越えて、しばしのあいだ、夢の世界の中を生きる。
ただし、そこは個々が、何を考えているかわからない他者同士が、おしゃべりするような、ことばで切り刻み合う空間ではない。
会話のようでいて、うたの掛け合いは会話にはならない。情報の伝達や真実を評価するためにことばが用いられるのではない。
掛け合ううたの時空間は物語と同じで、聴く人はその世界を物語のように共有する。物語の内容全ては、情報のための情報ではない。物語は自分の経験を照らす機会であったり、物語の世界を生きたことで、何かを学ぶ場だ。





即興うたは参加が自由で、誰がうたってもよい。反論してもよい。なにか、「大きな物語」が、うたの背後にあるような、ルールを知っている人たちだけが参加を許される自分と他者の区別がつかない世界がある。
即興でのやりとりは、会話と同じなのに、独特のリズムとメロディとことばの響きと、うたの内容=物語には、親が子どもに物語を語って聴かせるのと同じやさしさがある。

その時間だけは、誰もが魔法にかかったように、こころがフワフワする。
「時間を忘れる」「魂を忘れる」ように。
即興うたがうたえなくても、その世界を聴いて想像するだけで、自分もフワフワしてくる。
ことばがわからなくても、なぜだか、その場では僕の想像も自由だ。

奇妙な社会、人とのつながりかた。
彼らのうたは、おとぎ話の語りのような、やさしいことばの魔法になる。
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