中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
お米と人と動物、そして神や精霊

新米の季節ですね。

日本では古くから五穀の収穫を祝う風習があった。宮中行事である新嘗祭(にいなめさい)もその延長にあったといわれている。毎年収穫後一ヶ月間の忌籠りの時期があり、ようやく11月の卯の日になって、はじめて新稲の消費がおこなわれる。そこでは天皇が天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)に新稲を捧げ、また自らも初物を食す。新稲は神の加護がこめられた聖なるものとされ、天皇だけが最初に口にすることができた。それは、非日常的な存在であり、日常をこえた力をもつ天皇だけに許された特権であり、逆に、天皇に課せられた危険な義務でもあった。

世界のあちこちには、危険をひきうけながら、王が最初に初物を食べることで非日常的な力を手に入れるという信仰がある。

なんとも神聖で尊い行為だろう。一小市民の僕は、そんな神々しい場面に居合わせることは永遠にないだろう。そこで、地域が違うと初物を口にする習慣にはどんな違いがあるか、タイ族の習慣を比較してみよう。

IMG_4409.jpg
タイ族も稲には魂が宿るという信仰があり、毎年稲の魂や田畑の精霊を祭る行事が各家庭で行われる。また、上座仏教の雨安居期間は、かつては若者が毎晩のように寺で独特の倍音を響かせる太鼓を敲いて踊り、豊穣を祈ったという。また、今も毎年6月ごろに行われる村の守護霊祭祀では、村中の男たちが鶏などの供物を抱えて参加し、結界のなかで各家庭の供儀を神にささげ、村人達の庇護と、その年の豊作を祈願する。


RIMG2519.jpg



日本と違うのは、タイ族の農村では、新米は田畑を耕す労働力を提供してくれた牛と、犬が最初に食べるのだ。

なぜ、犬なのかというと、稲の魂にまつわる伝承にその理由が語られている。

本来、上座仏教の教義において、超自然的存在は迷信とされる。戒律の厳しい教派では、祖先や精霊といった存在はもちろん否定され、さらには身体に宿る魂という考えすら認められていない。

しかし、老人たちは、稲の魂だけは特別なのだ、という。

タイ族社会には、仏と稲の魂に関する伝承がある。
精霊や魂の存在を否定する仏に怒った稲の魂は、人間界を離れていった。するとたちまち人間界は食べるものがなくなり、仏はすぐさま自分の間違いを認めて、稲の魂に人間界に戻ってきてもらうように請願したという。


そして、犬と関係したおもしろい伝承がある。(いくつかパターンがあるよだ)

むかしむかし、人間界はたいして働かなくてもたくさんの作物を収穫できた。しかし、人はやがて怠け癖がつき、稲の魂は祀られずにほったらかしにされた。怒った稲の魂は、人間界を離れてしまった。すると人間界ではたちまち不作がつづき、たくさんの人や動物が餓死してしまった。そこで、人びとは稲の魂に帰って来てもらおうと、いろいろな手をつくすのだが、戻ってきてくれない。そこで、人びとを可哀想に思った犬が稲の魂のところに行ってお願いしたが、稲の魂は了承してくれず、犬は追い返されてしまった。しぶしぶ、人間界にもどってきた犬だったが、ふと気づくと、犬の体のあちこちには稲穂が毛にくっついていた。稲の魂を訪ねたときに、偶然にも稲が毛にくっついたのだろう。それからというもの、人間は毎年きちんと稲の魂を祀り、そして、収穫した新稲は最初に犬に食べさせるようになった。

ごく普通の柴犬が舌を出しながら体に稲をくっつけている愛らしい様子を想像してしまう。
「ご主人様、だめだったワン…」とぼとぼ
「あれ、稲が毛にくっついてるワン!」はぅはぅ!

124-2406_IMG.jpg


神々しさとはほど遠い、どこにでもある日常のひとこま。
そのなかに、人と動物とお米、それらをつなぐ見えない超自然的存在、そして微笑ましい偶然のいたずらを想像する。
コメント
コメントの投稿
 
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
 
 
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://asianmusic.blog50.fc2.com/tb.php/166-4920ca01
この記事にトラックバックする
 
 
 
 
 
 
 
 

copyright © 2006 People, Life and MUSIC all rights reserved.

 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。