中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
哭きうた その2

タイ族の哭きうたを初めて聴いたのも、張興榮教授に同行したフィールドワークだった。

先生と僕はある村に住む女性を訪ねた。その人は地元で有名な民間歌手だという。先生は数年おきに会いに来るらしく、体調や村の様子、最近の活動について雑談のような聞き取りをして、それからうたを歌ってもらうことになった。

このときタイ族の村を訪ねたのは、僕がひょうたん笛を習っていたからだった。張先生が気を利かせてくれて、せっかくタイ族のエン先生から習っているのだし、本場のうたを聴いてみるのはいいことだといって立ち寄ってくれたのだった。



僕らは一般的に歌われる掛け合いうたの記録からはじめた。

録音は家の敷地でおこなっていたので、女性の歌声は近所につつぬけだったのだろう。
しばらくすると、一人のおばあちゃんがひょっこりと現れて、黙って僕らの作業を見ていた。

張先生と僕は女性のうたを記録し、いよいよ女性が哭きうたを歌うことになった。
女性は何度も張先生の前で哭きうたを歌って記録しているし、歌いたくないといった。歌うべき機会でもないのに、わざわざ死者を偲ぶようなうたを歌うことが、何か不吉な結果を招くのではないかという不安があったようだ。

しぶしぶ了承した女性は、僕らに花嫁と母親が別れる際に歌いあう哭きうたを歌ってくれた。
「お母さん」という呼びかけからうたがはじまる。
日常生活で使っていた家具や寝具、住んでいる家を離れることを名残惜しみ、家族との別れの悲しみと新しい生活への不安を、胸のあたりから搾り出すような声で歌う。
感情がのって、最後には涙を流して歌った。
(実際は参考ビデオのような雰囲気の中で歌われる)

歌い終わると、見物のおばあちゃんが話しかけてきた。女性が状況を説明すると、このおばあちゃんが哭きうたを歌いたいというのだ。
僕らにとってそれは願ってもない申し出だ。

さっそくマイクをセッティングして、張先生が毎度のように録音の注意事項を(雲南方言で)いう。
「手をふったら歌い始めてください。こうやって――」

言葉が違うから意思疎通は難しく、たいてい身振りを伴って説明すると、歌い手はつられて歌い始めてしまう。おばあちゃんもタイミングなんてお構いなしで歌い出した。

見た目はもう80歳くらいの高齢の老女だった。声は小さく、しわがれていた。
おばあちゃんはすぐに涙を流しながら、亡くなった母親のことを思い出して、死者を偲ぶうたを歌った。
歌い終えた老女は笑顔だった。

なぜ、このおばあちゃんは自分から哭きうたを歌おうと思ったのか。
僕はその疑問の答えをそこで得ることはできなかった。


あれからもう14年が経った。老女はもういないかもしれない。あの日以来ずっと、なぜ老女がわざわざ哭きうたを歌ってくれたのかという疑問を忘れてすごしてきた。

今では、僕は言葉を学びその社会で生活した経験のなかから多くを学んだ。
死者を偲ぶ哭きうたが歌われる機会は葬儀だけに限らず、その後も親族は、7日後、30日後、1年後などに死者が暮らした部屋でわざわざ歌う。
哭きうたを歌いすぎることで、歌い手は魂を失ってしまうとか、死者を現世に引き止めてしまうとか、そして、たまに死者を思い出してやらないと、死者が祟るのだとか、いろいろな言説があることを知った。

哭きうたを歌ったおばさんたちが、僕にこういったのを覚えている。
「哭きうたを歌って、こころがすっきりした。」

そして、あるときは、
「誰も思い出してあげないなんて、寂しいことだろう?」
という呟きを聞いた。

我を忘れるような哭きうたに没入しているとき、ただ会いたい人を強く思う。
きっと二度と会うことはできないことを知っていても、亡くなったその人との想い出を忘れていないことを伝えようとしているのだろうか。

エン先生が亡くなってしばらくのあいだ、先生の母は訪ねてくる人たちの目の前で急に哭きうたをうたっていた。
ただ悲しみをまぎらわすのでもなく、それはまぎれもなく、弔問に訪れた人の優しさを死者に伝えるためのうただった。


つづく

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