中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
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私たちは小さい頃からイメージを言葉に置き換えることを教えられ、また、言葉からイメージを思い浮かべるすべを養ってきた。まして、文字が一部の知識人に占有され、日常的には用いられることのない声の世界では、言葉がつくりだすイメージがどれだけ重要な役割をはたしているだろうか。

シャマンが経験している「憑依」状態での「うた」は、シャマンと僕たち聴衆にイメージと言葉の世界を往復させる。

精霊がヤーモットの身体を媒体にして儀礼の場の生者と交換する状態を、人びとは霊がヤーモットに「降りてきた」とか、「入った」と表現する。
いかにも「憑依」という言葉で形容できそうな技法は、「ロンシン(棚に降りてくる)」と呼ばれている。

死者や精霊たちが遺憾や託宣を語ろうとしていることに感ずくシャマンは、己の肉体を媒体として見えないものたちを「憑依」させ、死者の感情や情緒を即興のうたによって表現するというのだ。


前回、僕は精霊と交感する技法の基礎が、シャマン自身の歌う能力だと書いた。
シャマン自身の歌う能力が低ければ、正確に精霊や死者のメッセージを媒介することができない。

歌う能力を研鑽することが見えない存在の言葉や情動を生者に伝える正確さにつながるというならば、シャマンが見えない存在からどのようにして言葉や情動を受け取るのか?
もうひとつの精霊と交感する技法の基礎、つまり彼女たちの「憑依」の技法には、感性の論理があるようだ。

「憑依」というと、あたかも超自然的な存在が本当に身体に「乗り移って」現実世界に現前するかのような神秘的現象にとられてしまう。
しかし、歌う能力がなければ、シャマンは精霊たちと生者のコミュニケーションを仲介させられない、ということと同じように、「憑依」(らしきもの)にもシャマン自身の能力に関わる問題があるという。


簡単にいうと、それは、自分の身体の「感覚」を、守護霊のそれらと同調させることだ。

シャマンには特定の師はいない。彼女たちは村落の別のシャマンたちの活動を参照し、また、守護霊から感覚をリンクさせる交感の技法を授けてもらう。

儀礼のたびに、シャマンは、守護霊の目と自分の目をつなげ、守護霊の耳を自分の耳とつなげ、守護霊の口を自分の口とつなげ、…すべての感覚の器官をリンクさせる。
感覚のリンクした程度によって、ヤーモットが受け取る刺激?あるいは「かたちのない」イメージがはっきりとするという。
そしてヤーモットが間接的に経験する守護霊たちの次元の出来事は、この能力をもたない生者たちと共有するために、ヤーモットの「うた」によって表現される。

このうたの生成は、また別の論理が働いているようだが、その話はまた別の機会にしよう。


シャマンが守護霊と交感することを、守護霊や死者の「憑依」と表現してしまうのは誤解を招くだろう。シャマンの身体には、何か特殊な実体が物理的に入り込むわけではないし、ものが憑くとか、乗り移る、乗っ取るわけではない。
見えない次元の守護霊の感覚と同調するだけだというのだ。
(近年では、歌わない・歌えないシャマンが大げさに精霊を「憑依」させる演出を行う者もいるが…。)

こうした特殊な状況に心身をおくために、ヤーモットは物理的な環境を整える必要がある。

儀礼のほとんどを依頼者の家で行う。
儀礼が執り行われるとき、依頼者にとって、慣れ親しんだ家は非日常的な物の配置で満たされる。
椅子や机の配置、食べ物や花、菓子、布、工芸品などの物、ローソクの火や線香の煙、集まる人びとの体臭や供犠する動物、料理の匂い、調理の音や人びとの雑談…。

萎びていく、切り取られてきた桑の葉と枝や、燃えて灰になる線香やローソク、生肉の色の変化などは時間の流れを示す。

ヤーモットが儀礼を行うとき、彼女の体も非日常的な姿勢と運動を促すように、様々な物が配置される。
シャマンは人びとに背を向けて座り、居間の殺風景な正面をみつめる。正面には静寂と暗闇が、背後には人びとのざわめきと光が差し込める。
椅子にも、布や紙幣が敷かれ、長時間の儀礼に疲れないようにと背もたれを工夫する。足元には戦いや葬儀に使う男の長刀を置き、踏みつける。
目の前には供物が山のように積まれている。

なんだか落ち着かない混沌とした様子だ。

シャマンは簡単な儀式を行うと、守護霊の助力を祈願するうたを歌い始める。
膝を細かく揺すりながら、片手に持った扇子をゆっくりと仰ぎながら、儀礼に集まった人びとのざわめきを打ち消すような力強い声を響かせる。
ヤーモットはこのとき、身体に宿る120以上の「魂」(これがタイ族にとっての知覚のほうの感覚概念らしい)を守護霊のそれぞれに結びつける歌をうたう。

やがて、シャマンの意識は消えて、守護霊たちの見えないものの次元の出来事が、まるでラジオ中継のように、うたで描写され始める。


ふと、僕は、「死者や精霊が家に供物を受け取りに来る」というとき、見えないものの存在は「どこ」に来るのか、疑問におもった。

僕らに見えている現実空間では、もちろん見えない。
しかし、うたが表象する「かたちのない」イメージの世界では、いま、ここに来ている、という。


僕は死者を送り出す儀礼の主催者たちに、「死んだ人は家に来たの?」とたずねた。

返事は、

「さぁ? わからないよ」

だった…。

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