中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
先日、11月28日から12月2日まで、昆明市の昆明劇院と源生坊にて、雲南少数民族の伝統芸能に関するパフォーマンス「第二届源生乡村音乐歌舞艺术节」と、伝承活動の成果発表、そして様々な討論会が行われました。
この機に、以前オーナーの劉暁津さんが書いた記事を日本語に翻訳したものを紹介いたします。

芸術祭の写真はこちら:源生坊の活動

劉暁津 著 ドキュメンタリー作家、『源生坊』オーナー(筆者の許可を得て翻訳:伊藤悟)
中国:2002年12月号『芸術世界』総第151期、pp.66-69.


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Sad Melody ――悲しき歌 『雲南民族文化伝習館』のゆくえ

1994年1月18日、中央楽団・国家一級資格をもつ作曲家、田豊は、チベット水利工事兵部隊のある部門から10万人民元の寄贈を受け、昆明から40キロほど離れた安寧県内に『雲南民族文化伝習館』を設立した。伝習館の教師や生徒は、田豊が雲南の辺境各地から呼び集めた農民たちであった。教師は当地では威信ある民間の芸能保持者で、生徒たちはその教師と民族、故郷を同じくする16-20歳の若者であった。教師は生徒に口頭で雲南各地の民族の伝統芸能を伝承していった。食事に寝床、すべての費用は伝習館が負担し、さらに、師弟にはわずかながらではあるが小遣いも与えられた。伝習館の経済基盤は田豊による資金調達に全面的に依拠していた。


伝習館の力
  1994年秋、私は初めて伝習館に足を踏み入れた。そこには、あたかもそれが日常の姿であるかのように鮮やかな少数民族衣装をまとった山地民たちの姿があった。彼らの踊りや歌声は、畑仕事に精を出している最中を除いて、一日中途絶えることはなかった。私は、ふと、自分が立っているこの場所について思いをめぐらせた。
  伝習館で出会った歌と踊りはどのようなものであったか――。あるとき、若い娘たちが遊び戯れていた。彼女たちはさっと木の葉を手に取り口に当て音楽を奏でた。それは心が晴れ晴れとするような爽快な音であった。そのとき、一見不器用そうで荒々しい若い男たちが通り過ぎた。彼らの汗の臭いは泥や土の息吹と溶け合っていた。彼らは手製の楽器を取り出し、それを演奏し始め、そこに「天籟」の音が轟きはじめた。すると今度は美しい衣装を身にまとった娘たちが、7、8体の太鼓を抱え、リズムを刻みはじめた。それは聴く者の身を震わせるような、複雑で絶え間ない音の連なり、24連のリズムであった。その音は戦に響く太鼓のようでもあり、熱狂的な何かの祭典のようでもあり、血潮をたぎらせた。彼女たちの眼は炯炯と輝き、魂が踊りだすかのようであった。

  田豊は、目を疑うような驚くべき「存在」を私たちに教えてくれた。
  こうした芸能は、雲南の険阻な山路の中、各少数民族の村々の生活の中にうずもれていたのであった。田豊はそれらに目を留め、数千年にものぼる長い年月の間に培われてきた絢爛多彩な民間文化を、より広く、より多くの人々に理解し受け入れてもらいたいと願った。そこで彼は独自の思想に基づき、保存・展示を行っていった。さて、事は彼の思惑通りに運んでいるのであろうか?
  私は、尊敬と疑問の入り混じった面持ちで、ビデオカメラを回し始めた。あれからもう、7年にもなる…。

田豊という人物
  「外人のような」―― 普久芬は田豊の第一印象をこのように形容した。普久芬は伝習館における最初の花腰彝族支系の生徒で、家は中国-ベトナム国境からさほど遠くない雲南省緑春県牛孔郷土嘎村にある。われわれを啓発させるような太鼓の音の調子は彼女の村からやってきたものだった。田豊が初めてその村を訪れたとき、村人たちは外人――鳶色の眼をして黄色がかった長髪を結わえた――が来たと大騒ぎだったという。田豊の写真、普久芬の家族たちとの写真はぎっしりと額縁におさめられ、壁の真正面に掛けられていた。これらの写真がいつ撮られたものか普久芬はよく覚えていなかった。
  田豊はいったい幾たびこの村を訪れたのだろうか? 後で知ったのだが、1985年に雲南省に招請され作曲を依頼されたときから、彼は毎年その村を訪れていた。いつも村々を渡り歩くときは1、2ヶ月をかけてさまざまな村を訪れたという。その間、田豊は小さなテープレコーダーを使って100本以上のテープに雲南省各地の少数民族音楽を記録したという。どこそこに好い「山歌」(注:掛け合い歌)があると耳にすれば、車が入れないようなところでも歩いて村まで行ったという。こうした話は私が伝習館の記録を始めてから徐々に分かったことだった。田豊は厳しい自然に分け入り、険しい山道を行く中で、雲南民間歌舞の精髄を悟ったのだろう。こうした彼の経験をへて雲南省の民族文化の生命はつなぎとめられたのだ。
  その他、田豊に関して分かっている情報といえば、孤児院で育ったこと、軍に入隊していたこと、大学に進学したこと、中央楽団に配属されたことなどである。彼が毛沢東主席のために作曲した曲は「文化大革命」期に中国各地で鳴り響いた。その後も、次々と作曲された一連の作品によって、彼は楽団では新世代の代表人物としてたたえられた。田豊は10年前に離婚し、その後は結婚していない。息子一人、娘一人、ふたりとも既に独立している。娘は国外で暮らし、息子は北京のコンピューター会社の社長になった。

三遷伝習館
  田豊が農村を訪れるたびに目にする光景が、彼に伝習館の設立を構想させる発端であった。初めて村を訪れた頃は、まだあるところには伝統(上述したような)芸能があった。二度目に訪れたとき、村人たちは踊ろうとも歌おうともせず、それらは封建的な迷信だといった。三度目の訪問では、老人たちは亡くなっており、芸能も途絶えてしまっていた…。田豊は村から戻ると、友人たちに彼の心の痛みや感じたことを伝えた。周囲の友人たちは、田豊が音楽にたずさわっていること、耳が鋭くよく利くこと、彼のいうことには必ず道理があるということを知っていた。結果として彼はチベットのある水利工事兵部隊から寄贈金を受け取ることとなり、1992年、伝習館の設立事業に乗り出した。
  1993年、田豊は農村から第一期として教師と学生を招集し、翌年1月、雲南伝習館は正式に開校した。その2年後までに伝習館の人数は、彝族、哈尼族、納西族、チベット族、ワ族、ヌー族、ドゥーロン(独龍)族、リス族など90人以上にものぼった。しかし常に資金不足であったため、伝習館は安寧県で3度も移転を繰り返した。最初は西南林学院に、その後は、ある農村の小学校に移った。伝習館の老人たちは当時を思い出して次のように語った――。
収入もなく運営資金も底を尽き、食べる米も買えなくなるほどになると、田豊は全員を呼び出し「もしもこのまま(資金調達が)どうにもならなければ、皆に先に故郷に帰ってもらい、私がお金を工面できたら再び戻ってきてもらいたい」と涙を浮かべながら言ったという。
  最終的には、安寧県委員会と県政府が、伝習館を存続させるために、無償である小さな農場を彼らに与え、さらにジープを1台(田豊は農村に行くのが好きなので、この車の寄贈によって彼の最大の悩みは解決された)を贈った。その他、彼らは200元/ムー(注:1ムー(畝)=6.6667ヘクタール、0.164エーカー)の価格で田豊たちに70年間3800畝の山地の無償借用を認めた。こうして、3度目の移転でようやく伝習館は太平郷の「妥楽農場」に腰を下ろしたのだった。
  私の知る限りでは、この期間の伝習館の主要な経済基盤は、チベット部隊が寄付した10万元で、その後、アメリカのフォード財団より5万ドルの賛助金、広西省の韓氏の賛助金が12万元、昆明の鴻運経貿実業会社からは1995年から毎月1トンの米が送られた。こうした状況は4年ほど続いた。

  田豊の伝習館は自立できずに物乞いのようにして乗り切ってきたという苦痛の経歴を持っていたが、自分たちの土地が手に入ってからというもの、雲南省25民族文化保護区設立のアイディアが芽生えていた。1997年4月、雲南民族文化伝習館と雲南山林文化有限会社とが協力合意に至った。これによって山林会社から毎月3万人民元の投資を受け、伝習館の教員と学生の基本的生活が保証された。また双方が共同で雲南民族文化保護区を開発していくことになった。田豊はこのとき、その2年後に裁判沙汰にまきこまれ伝習館が閉鎖に追いやられようとは、夢にも思わなかった。


学術之争
  伝習館の設立以来、学術界との対立は絶えなかった。ある学者は、アメリカのネイティブアメリカン文化の保護やインドネシアのバリ島文化保護の経験からみて、田豊の方法は見るに耐えないと述べていたが、他方では、伝習館の方式と目的は上記の二つのものとは相異なり探求性があり、もしひとたび成功すれば全世界人類の伝統文化の保護に積極的な作用をもたらすであろうと考える専門家もいた。
  伝習館の方式は人類学分野の「当該地域における保護保存」(すなわち文化が形成されたその場において保護保存を行うこと)と「異なる場における保護保存」(文化が生成した場を離れた別の地域において保護保存を行うこと)の概念に密接に関わる。「魚を水中から捕まえて飼う」という諺でいうような異なる場における保護保存は、田豊の伝習館の方法を形容している。田豊はこのことについて次のように解釈している。

「伝習館がまず残そうとするのは消失の危機に瀕した文化であり、数千年もの間に蓄積された、動態的な、経典のような雲南民族の音楽と歌舞だ。よって、伝統的な日常生活の習俗といったものではない。対象となる音楽と歌舞を動態的に伝統文化として保護保存するものだ。世界各国ではどこでもさまざまな試みが手探りで行われている。これといった決まり手はない。現在、中国経済が急速な転換期にさしかかっている中で、伝統文化は強烈な打撃を受けている。雲南省の農村では人が死んでしまえばその芸も失われてしまうということは往々にしてある。よって、ただ保存するのでなく、まず先に救出することが先決である。もしも当該地域において保護保存を行うならば、一つの村の文化はどれだけの資金と労力が必要であろうか? 国家は今のところ気に留めようともしない。個人として、いったい私たちには何ができるというのか…?」


7年間の奮闘
  学術界の専門家の意見は多種多様であるが、伝習館にやってくるのは国内外の専門家だけではなかった。企業家や記者、国内外の学生、田豊の活動を熱心に支える人々などが絶え間なく訪れた。1994年から1996年の間だけでも、伝習館を参観しにやってきた人数は合わせて2000人にものぼる。マス・メディアはこぞって伝習館を報道した。その内容は次のようにさまざまである。「数千年の歴史を持つ赤子」とか「深い山奥の花は最も美しい」、「根を残す」、「苦しい旅の痴情」、「理想の中の苦痛」、「未来を見守る」、「悲しみ憤る孤独な人」、「原始文化の生死の結び目」…。

  伝習館の教師や生徒は、この間、何度かフランスや日本、アメリカ、台湾、香港などの国際文化交流活動に招待された。たとえば、1997年フランスの芸術祭(5人)、同年日本東方音楽芸術祭(10人)など。また1999年、伝習館の2人の老芸能者は、アメリカの著名なモダン・ダンスのプロデューサー、ラルフ・レモンの依頼を受け、彼の大型モダン・ダンスに参加し、ニューヨークのBAMオペラ劇場にて上演した。伝習館の教員と生徒はさまざまな場を訪れるたびに歓迎され賞賛され、雲南民族文化の名を知らしめた。しかし、経済面に関しては、これらはすべて純粋な文化交流活動であったため一銭の収入もなく、それどころか伝習館自ら資金を出費して出国するものたちのためにさまざまな手続き費用を負担したのである。
  伝習館を訪れる国内外の音楽や舞踊などの芸術家も多かった。1995年、シアトルのロック・グループ「アース」は、伝習館の演目を見て、感動して涙を目になじませながら「これこそ本物の音楽だ」と述べた。1997年、中国音楽界の大御所、北京音楽記録団体が来訪し、1998年にはスウェーデンの中国駐在大使がバレイ団30数名を連れて来訪した。同年、著名音楽家、何訓田氏、朱哲琴氏が来訪し、著名舞踏家の楊麗平女史は伝習館で伝統的民族民間歌舞の精華を受け継ぎながら、舞踏劇『女国』のリハーサルを行った。
  伝習館の運営面でも、田豊の精神に感化され伝習館の事業に投資した人々は少なくなかった。しかし、その後経済的効果の上がらない状況を鑑みて投資家たちは次々と去っていった。伝習館の事務は、実際のところ、館長の田豊、財務管理担当の張其、および運転手の小沈のみによって行われていた。
  こうした社会との交流の中で、伝習館を続ける田豊は人々の賞賛を受けた。しかし一方では、厳しい眼差しで見られることも多かった。政府文化部門の役人からは、「お前は雲南の人間でもないのに、何をくだらないことをやっているんだ?」と言われた。そんなとき田豊は堂々と「私は雲南の人間ではない。しかし同じ中国人だ。雲南は中国の一部ではないのか?」ときりかえした。また、ある者たちからは「金をむやみやたらと使って、金があるなら俺たちにトラクターを1台買うべきだ」と言われた。その後も、農村に行くたびに多くの人々が「お前は馬鹿でなければ狂っている」とか、「天下のペテン師」とも呼ばれた。学費も必要なく毎日ただ歌って踊るだけで給料までもらえるという、この世の中のいったいどこにそんないい話があるというのか。
  田豊にとってこうした罵詈雑言は些細なことでしかなく、周囲に起きたことは心に留めなかった。彼が気に留める大事、そして彼が期待してやまなかったことは、まったく起こらなかった。彼はずっと政府の支持と参与を期待していたのだ。しかし、なぜだろうか、その日はついに訪れることはなかった。


「一曲絶唱」
  1998年4月、伝習館と山林会社の提携に亀裂が生じ、山林会社は伝習館に提供していた毎月の生活費の援助を打ち切り、伝習館は存続の危機に陥った。田豊は一方で作曲による原稿料によって伝習館の生活費を支え、一方で社会に対し支持を求めた。どうにか昆明西部集団から無償で9万元の賛助を受け、昆明の鴻運経貿実業会社からは毎月1トンの米の提供を得ていた。1999年3月、伝習館と雲南旅遊芸術団が協定を結び、楽員たちは旅遊芸術団において1年の芸能活動を行うことになり、この芸術団が彼らの生計問題の解決に責任を持つことになった。
  1999年6月、山林会社は訴訟を起こし、伝習館の解散と110万元の賠償を求めた。山林会社との2年に至らない提携の中で、田豊は不注意にも多くの書類にサインしていたのだ。山林会社はその書類を利用して数10万元もする自動車を購入していた。サインした本人はそのような車に乗ることもなかった。また、山林会社は昆明に事務所を借りていたが、妥楽農場の伝習館とはまったく無関係であるにもかかわらず田豊はその借用書にサインをしていたのだった。当初彼らが提携を話し合った頃、山林会社の社長と田豊はまるで兄弟のようで、その社長がいかなる書類を田豊にもってこようとも、田豊は何も見ずに言われるがままサインをしたのだった。しかし彼はこれらすべてのサインや捺印が伝習館の解散を招くことになろうとは思いもしなかった。書類はすべて法廷における証拠となってしまったのだ。
  2000年5月、昆明市中級裁判所が開廷し、そして判決が言い渡された。雲南民族文化伝習館は敗訴の判決を下された。田豊はいらだった様子で「金などない、あるのは命だけだ。牢屋に入る準備はできている」と言った。そして伝習館は直ちに解散させられてしまった。
  2000年8月、田豊は、私の最後の取材において、「私が敗訴するとは夢にも思わなかった。この社会はなんと不公平なのだろう」、「伝統文化の保護は政府の支持と参与がなければ、個人の力量だけではどうにもならない」、「私はオペラ『屈原』の作曲に専念する」と言い残した。
  田豊の娘は国外から駆けつけ、田豊を一緒に連れて行こうとしたが、彼は頑として応じなかった。
  2000年11月、田豊は身体の不調を訴え昆明の病院に入院した。翌月、彼は北京の中日友好病院に移り、末期の肺がんと診断された。2001年の春節、彼は急いで退院して昆明に戻ろうとした。田豊は「やることがある」と言った。しかし彼はとうとう意志半ばにして逝ってしまった。同年6月29日、田豊は北京中日友好病院にて、彼が愛してやまなかった雲南民族音楽に永遠の別れを告げた、享年67歳だった。
 
  雲南民族文化伝習館は1993年の設立から2000年6月の解散まで、年月にして7年間、中国において初めて個人によって運営され、民間の力によって生存した民族伝統文化保護・保存を目的とした郷土学校であった。

  私は伝習館をドキュメンタリーに記録し続けたことで伝習館の勃興から没落までを目の当たりにし、そして、幸いにも歴史の一幕に証拠を残すことができた。それから2000年9月以後、私と田豊は連絡が途絶えた…。私は雲南を離れアメリカに半年滞在した。ニューヨークのマンハッタンを歩いていると、さまざまなパフォーマンスや活動を行う博物館や芸術団体を目にし、私は感慨を覚えた。あたかも社会全体が先駆者の創造性に受け応えて何らかの反応を示しているように感じられた。その理由はきっと創造性がひとたび実現すれば、社会全体がそれに伴って何らかの利益を享受することができるからなのだろう。田豊の伝習館はさまざまな人々に感動を与えた。しかし、7年もの間営まれてきた伝習館は、「なくなったものはなくなったのだから仕方がない」と果たして割り切ることはできるのだろうか。ここまで考えて、私は思わず、悲しみに…。


(終)
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