中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
『本当の戦士-ある音楽家の闘いと死』


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 僕がただ一度だけ逢った人。
この人のように強靭な精神と意志をもち、ただならないオーラを感じさせる人には、もう出会うことないだろう。

 1998年、僕が雲南に来て暫く経った頃、ある初老の音楽家の噂を聞いた。
 その人の名は田豊(ティェン・フォン) という。

 昆明からバスで1時間くらい行った安寧県の郊外の農場に、「雲南民族文化伝習館」という少数民族芸能を伝承する学校を創った人だった。

 この人は中国で初めて、個人で少数民族伝統芸能の保護を実行に移した人だった。こうもいえるかもしれない、数ある行政団体や学術界のどの人々よりも民族芸能を愛してやまなかった。たとえば、汚染され汚れていく湖の魚を救うために、底のあいた桶で必死に死ぬまで魚を救い続けた、人と。

 

数奇な生い立ちをもつ田豊氏は北京出身の有名な作曲家である。中国人とある国のハーフで、鼻が高く東洋人離れした風貌だった。氏は文化大革命の時代に中国雲南省の少数民族芸能と出会った。氏の作曲した作品の多くは雲南の農村の民間芸能からインスピレーションを受けたものだという。文化大革命が終わったあとも、氏は毎年のように雲南を訪れた。氏の雲南への愛情はますます大きくなっていった。しかし、氏が農村に取材や調査に行くたびに、やりようのない悲しみも膨らんでいった。
 都会の人々の生活が好転し始めたころ、雲南の片田舎では、伝統芸能を継承してきた老人が一人また一人と亡くなり、文化が失われていく姿を目の当たりにした。「去年までいた長老が死んでしまい、多くの村が様々な芸能を、知恵を失った。」

 この現状を憂い、田豊氏はあるアイデアを実行に移すために、私財を投げ打って、雲南に移り住んだ。
 田豊氏は年々失われていく少数民族芸能を何とか保護、継承、発展させたいと切に願った。学術界や行政では、形式だけの会議が開かれるだけで、何一つ実行に移されない。当時の音楽家や学者にとっては消失する音楽を譜面に記録するのが精一杯だった。まして、高価な録音機もなかった。そこで、氏は「伝習館」という民族芸能の保護/保存を目的とする学校を建てることを決意するのだった。

少数民族の伝統芸能を老人から若い人々に受け継いでほしい、田豊氏の「伝習館」は夢であり、そして彼にとっては使命だった。
 田豊氏は国から省、県、村レベルまで、様々な行政部門や企業にその必要と意義を訴えかけた。しかし、設立当初から氏の計画は政府に無視され、企業や心有る人々の寄付金でその学校の経営が始まった。
 伝習館は田豊氏が自ら歩いた少数民族の農村から伝統芸能を保有する老人たちを見つけ出し、その老人たちを教師として迎え、それと共に、同じ村出身の若者を学生として迎えた。特徴的なのは、その場に集う若者は一切の学費を払う必要がないことだった。そのうえ、伝習館が毎月学生にも僅かながら小遣を与えた。それは農村から離れて芸能を学ぶ間、働き手を欠き、農作業が困難になった家の経済を助けるためでもあった。

 設立当初から経済的困難は続いていた。彼らは教室を自分たちで建て、やがて自分たちで畑を耕し、できる限り自給自足の生活を目指した。いや、そうせざるを得なかった。しかし、時には資金が尽きて、若者たちは仕送りができなくなり、村に帰る者もいた。また、時として若者のなかには昆明のような都会のレストランの客の前で歌や踊りを披露するアルバイトを選ぶ者もいた。
 その後、伝習館を開いた土地の安寧県政府がようやく無償で土地を貸し与え、また僅かな料金で山を貸し出した。しかし、やはり伝習館の資金はどうにか企業や海外や国内の融資を募るのみであった。

 氏の伝習館は国内外でたちまち話題になった。少数民族芸能の伝承者を村から呼び、その土地に住まわせ、若者も村から呼んで、生活の支援もして伝統芸能を学ばせる、奇抜なアイデアであったからだ。
 氏は学校の運営を軌道にのせようと必死だった。ただ、これは何の経済的利益も生まない文化をめぐるひとつの活動だった。利益を生み出せないからなのだろうか、あぐらをかいていた中国の学者たちは氏の学校を批判の的にした。

 伝統芸能の伝承はその「本地」を離れてはならない、と。

 賛否両論があるなかで、そうした学術界や政府の厳しい見方は、やがて周囲の人々の眼差しにも影響を与えた。
 何も行動に移そうとしない専門家や行政の批判で田豊氏は窮地に追いやられることになる。中国の学問、特に民族学や文化人類学は応用指向である。すべては「発展」のために。星の数もいる学者が様々な提言を、論文を書く。しかし、多くは皆で集まってお茶をすするだけの机上の空論でしかない。田豊氏に対する批判はますます増えた。それだけ氏の活動が起こした波紋は大きかった。
 そしてついに、それまで支援を行っていたある企業が、利益を得られないという理由で(もちろんこれだけの理由ではなく、田豊氏がだまされたという見方もできるが)、氏を告訴した。
 氏は裁判で敗訴となり、あっけなく学校は廃校となった。
夢は一瞬の幻だった。田豊氏は新聞や知り合いにこう伝えている。
 「私に金などない。あるのは命だけだ。」



僕が氏と出会ったのは雲南に来て3年目の冬だった。

 僕のひょうたん笛の先生も、芸術学院の先生も田豊氏のことをよく知っていて、機会があったら是非訪れるべきだと言われていた。
僕の先生はどちらも田豊氏の伝習館にたいしてこう言った。

「彼がやろうとしていることは、確かにその芸能の生まれた現地を離れていて、本物か偽物かという議論になるかもしれないし、難しい方法かもしれない。しかし、いったいこの広大な中国において、彼以外、誰がこのような活動をしたというのだろう。われわれがすべきこと――彼を批判するだけではなく、われわれは彼と共に協力して伝統文化の保護や保存を行なわなければならない。」

 しかし、僕は、「いつか行こう」とずっと先延ばしにしていた。


 ある日、僕は田豊氏が裁判に負けたという知らせを聞いた。様々な新聞で取り上げられていた。僕は急いで氏を探した。彼が雲南を離れる前に一度でもいいから話がしたかった。
 暫くして、僕が住んでいるアパートのすぐ近くに、氏がレコード会社を立ち上げた事を知った。田豊氏をしたう有志の人々が氏の名前を使ってレコード会社を作ったのだった。氏がこれまで身にしみこませてきた音楽を、守り続けてきた音楽をこのレコード会社から発信し、その資金で再び伝習館を設立させようというものだった。

 僕は電話したり、事務所を訪れたり、何度か連絡したが氏はいつも不在だった。

 僕は雲南に数年住み、氏の足元にも及ばないが、多くの機会を得て氏と同じように少数民族の村を歩き回った。そのたびに、伝統文化の消失を目の当たりにしてきた。自分が育った文化とは違う鮮やかな色どり、耳の奥に広がってくる音の数々、肌や鼻にまとわりつく湿度と匂い、すべてが新鮮で刺激的だった。僕はただその人々と生活が好きだった。だから、そんな感覚の風景が変化していくことを身体で感じることができたのかもしれない。すばらしい伝統文化を保有している人々は、常にグローバル化する社会と小さな地域社会の狭間で様々な困難を抱えていた。うまくいえないけど、かれらの芸能は現代社会のシステムの中の「芸術」ではなかった。くみこまれていなかった。「生活」そのものだった。だから社会が変われば芸能をになう人々の顔の表情は変わっていく。
 それは古いしきたりといえばそれだけだったのかもしれない。「オンガクやゲイノウにうつつを抜かすなんて」というのが生活に必死だった村人たちの言い分だったからだ。きるもの、食べるものを買う金もないのにゲイノウなどできるか、と。
 そんな状況に何度も出くわした。そんなとき、僕は自分が無力であることを、そして、僕が伝統芸能を好きなことは、わがままな自分のノスタルジーでしかないのかと悩んだ。
僕はとにかく一度田豊氏に逢いたいと思った。僕はそのまま田豊氏がいなくなるような気がしていた。氏は裁判に負けてから、病院に入院する生活が続いていたという。約束はなかなか取れなかった。

 そしてついに
 2000年12月某日、僕は氏と会った。

 事務所の二階から手すりと付き添う女性の手を借りてゆっくりと降りてきた。体調が良くないのか、顔は青白く、歩くのもつらそうだった。「ようやく退院できたから」、と事務の人が氏に会うことを了承してくれた。この日も氏は無理に病院を出て作曲の仕事に取り組んでいたのだった。
 老いた身体に無理がたたったのだろう、咳がひどく、頬はやつれ、顔は青ざめていて、みるからに病人そのものだった。
 しかし、その眼つきはとても鋭かった。
 
 僕は自己紹介を簡単に済ませ、氏の言葉を待った。
 そして、氏は眼を見開いて僕を見据え、しわがれた声で力強く言った。


 『芸術に進んでいる、遅れているという差などない!』



 衝撃的な一言だった。その一言が、この人が今まで背負ってきた強い意志を僕に感じさせた。少数民族の音楽が野蛮だとか、俗っぽいとか、漢族の音楽が高尚だとか、そんな差はないのだ、と。
 僕は暫く氏と対談し、緊張感はあったが、楽しいひと時を過ごした。

 僕が帰るとき、氏は笑顔を浮かべて僕にいってくれた。
 「次の春節に、私とハニ族の村に行こう。」
氏は是非、と僕の手を、冷たくて、でも温かい両手で握ってくれた。先生をずっと看病していた人が若いハニ族の女の子で、「以前、私の村にも日本人の研究者が来ていた。」と、喜んで僕を誘ってくれた。とてもいいところだから、先生は毎年遊びに来る、と嬉しそうに言った。
 僕はその誘いを喜んで受けたかった。「先生、また連絡します」と言い残し、僕はその場を去った。

 その日が、僕が先生と会った最初で最後の日だった。



その後、田豊先生の様態はよくならず、昆明で何度か入院を繰り返し、北京の中日友好病院に入院した。氏は春節を病室ですごした。

 それから暫く経った。
 
 僕は雲南大学で卒業論文を書き終え、それを手土産に先生を見舞おうと思っていた。

 国境の旅から戻ってきたある日、テレビ局に勤めていた中国人の親友が僕のドキュメンタリーを撮ることになり、その準備をしていた。

 親友の部屋で、彼がふとつぶやいた。 

 「そういえば、1週間前、有名な作曲家が亡くなった。」

 彼は僕にその人物にあったことはあるかと聞いた。すぐその人が田豊先生だろうと思った。僕は翌日急いで先生の会社を訪ねた。2階から見かけない事務の女性が降りてきた。

 彼女と僕は硬い表情で挨拶を交わした。

そして

 「田豊先生は6月27日に北京で亡くなりました。癌でした…。その日、北京では突然大雨が降り、天も先生の死を嘆いたことでしょう…。

私たちは、最後まで先生に癌であることを隠し、先生に生きる希望をもってもらいたいと願いました。先生は最後まで、雲南に帰りたい、創りかけの曲を完成させたい、といっていました。そして、会社のこと、私たちのことをずっと気遣ってくれました。」

 僕はその日、人が死んだことで初めて泣いた。しかも、人前で。ずいぶん長い間哭いた気がする。
 その女性も涙をこぼし、ぼくにティッシュを差し出して
「先生もきっとあなたを見守っているでしょう。これからも、私たちは亡き先生の意思を継いでいかなければなりません。」と言った。

 僕は親友が昨日つぶやいた言葉を思い出した……。

 「彼は本当の戦士だった。」


 近年、ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」(2000年4月)がなされ、中国でも、ようやく少数民族の伝統芸能を中国社会の中に位置づける動きが起きている。また、経済的に後れている少数民族地域を文化保護や保存によって観光業に結びつけつつ、政府の主導によって彼らの文化を守ろうという考えが叫ばれる驚くべき展開を見せるようになった。

 田豊氏の活動は、まぎれもなく中国社会が文化保護へ重い腰を動かす小さなきっかけになった。しかし、社会の反応、それは余りにも遅すぎた。


 田豊先生のもとで芸能を学び、教えていた人々はどこに行ったのだろう?

 事務の人たちの話では、みなそれぞれの村に戻ったり、雲南のみならず、中国全土のレストランや歌舞団に出稼ぎに出て行ったという。

 あれから数年後、僕は田豊氏の教え子だった人たちと出会った。そして昆明の舞台で共演したのだった。
 田豊氏の伝習館の盛衰を記録し続けた劉曉津女史が彼女なりのやり方で田豊氏の伝習館で育った民間人で歌舞団「雲南源生民族楽坊」を結成したのだった。団員たちは昆明といった都会に住処があるのではない。普段ははるか遠くの農村で自分たちの畑を耕し、何かイベントがあると一晩、二晩かけて寝台バスに乗って村から上京してくる。無論、彼らに支払われる給料といったものはすずめの涙ほどのもの。
 彼らの感性で、ありのままを、かれらなりの即興性をこめて、伝統芸能を人々に見せる。
 
 当時の生徒たちのなかには、伝習館で出会い、めでたく結ばれ、子供をもうけた夫婦もいた。はるばる村からつれられてきた幼い子供たちは、大人たちのそばで、両親の汗臭いからだ、力強いあし踏み、冗談と笑顔、かろうじてコミュニケーションとして残る生活くさいオンガクを感じている。


雲南省における主な民族文化保護活動:

・西部大開発の三大目標の一つ「雲南民族文化大省」のスローガン
  …『雲南民族文化大省建設網要』

・2000年5月「雲南省民族民間伝統文化保護条例」

・『雲南民族文化生態村』計画
  …フォード財団の援助を受けた雲南大学や雲南省政府、共産党による(2005年でに6箇所)

・『雲南省民族民間伝統文化普査』
  …第一回目雲南省民族伝統文化に関する省規模の一斉文化調査(2003年10月より)
  調査対象は様々な技術や芸能といった無形のものから、建築や食品など有形のものまで幅広く、調査の目標としては「伝統文化保護区」や「文化之郷」、「文化伝承人」、「文化瀕危項目的管理辧法」といった項目が盛り込まれている。

・2004年春節 CCTVでゴールデンタイムに3日間、全国少数民族芸能コンテストを放映

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