中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
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友人が久しぶりに昆明に帰ってきた。
僕の友人はある僻地に住み込んで、ある老人の生活についてのドキュメンタリーを撮っていた。帰ってきて僕に電話をくれた、「酒でも飲もう」と。

僕らは「死者の魂がうたう」ことについて話していた…。


BRIMG1915-02.jpg

彼が撮影していた老人は85歳で、かつてその地域では知らない人はいないくらい有名な歌手だった。
去年から撮影を開始した友人は、この老人が「うたえない」、その姿をとりたかったという。
その老人はすでにのどが枯れて、うたを歌うことができなくなっていた。毎日決まった位置に置かれた椅子に座って日向ぼっこしている、その姿を友人は撮り続けていた。

その老人が数日前に亡くなった。
友人は老人が病気をして、亡くなり、葬式を行うところまでずっと家族の人たちと共に過ごしていた。でも、カメラは回せなかった。

友人は老人がなくなる2,3日前から外の犬が一晩中ほえ続けていたことを覚えていた。家族のものはきっと老人の魂が身体を離れ外をさまよい始めたから、犬がほえ続けていたのだろうといっていた。
老人には3人の息子がいると言う。長男は精神病をわずらったか、狂人として村の人々から軽蔑されていた。次男の家族が老人と長男の面倒を見ていた。

次男の奥さんは老人の長男に意地悪をして毎日少ししかご飯をあげなかった。

普段、友人は老人が自分の食事を半分しか食べていないことを不思議に思っていた。そして、ある日、友人はこの老人が毎日半分の食事を残しておいて、そっと長男の部屋の外においている姿を目撃した。

老人が亡くなった晩、習慣で家族のものが亡骸と一晩寝食を共にする必要があった。家族のものは鬼をおそれて、精神病の長男にその役を押し付けた。友人も彼と共に亡骸と一晩過ごした。

村の人々は偉大な歌手が亡くなり、これから先、いつか老人の魂が他の人の身体に乗り移ることはあるだろうか、と友人にこぼした。

友人は、ある日老人の長男と一緒にいた。老人の長男はいつものように独り言のように自分と話しをしていた。その時、彼は小さな声でうたをうたいはじめた。

友人は葬式の後になって、老人の3人の息子もうたを歌うことができることを知った。偉大な父の前では決して歌わなかったという。

長男はかつて子供の頃、しょっちゅう老人と山に登った。人がいない山で、父は誰に聴かせるでもなく、悲しいうたを歌っていた。長男は毎回そのうたを聴くたびに、怖くてしかたなかったという。
その父も子供だった長男に、「このうたは決してうたってはいけないよ」と言った。

そして、友人はある日彼と共に山に行った。
山のどことも知れないある木まで行くと、彼が友人に言った。

「子供の頃、父とキノコ狩りによくこの山に来た。そしていつだったか、この木の下でキノコを見つけた父は、私に言ったんだ。

『いつか、この木の下でキノコを見つけたら、お前は俺のことを思い出すだろう』

と。」


僕のタイ族の母はこれまで60年の人生で一生自分を許すことのできない、後悔がある。

僕は母のその後悔を何度か聞いたことがある。

タイ族の母の父はかつて政府の役人だった。そして有名な知識人で歌手でもあった。
非常に厳しい父親だったという。タイ族の母はしょっちゅう父親と出かけて、父親のうたを聴いた。タイ族の母も成長し、自然とうたを歌うことを覚えた。
でも、父親には自分がうたを歌えること隠していた。

母の父親は生涯ずっとタイ族の経典など文字資料をかき集めて保管していた。
中国で文革が始まろうという頃、母の父親はそれらすべての文字資料を保山地区のタイ族村落に分散させて隠したという。

しかし、今ではそれらがどこに隠されていたのか、知るすべはない。

文革が始まった頃、母の父親は不注意からはしごから足を滑らせて怪我をしてしまった。そしてそれが原因で亡くなった。
臨終に、タイ族の母はずっと父親に付き添っていた。父親は怪我が原因で「ことば」がしゃべれなくなっていた。

ある日、父親が必死に何かを伝えようとしていることを知った。手は動かなかったため、頭を動かして何かを合図していた。タイ族の母はきっと頭を剃りたいのだろうと、父親の頭を剃ってあげた。そして、父親はそのまま息を引き取った。

父親が亡くなり、母は父の部屋を整理していた。そして、ふと天井を見て、はっとした。
父親が合図していたのは、この天井に隠された、大量の「日記」だった。

僕の母は悲しみの中で、きっと老人はこの日記を人に見せたくないのだろうから、棺おけと一緒に埋めてほしかったのだろうと思って、それらの日記を棺にいれ、土に埋めた。

それからしばらくして(数日、数ヶ月?)、ある客が僕の母を訪ねてきたという。

その人はある地域の元土司(中国王朝の命を受け地域を統治していた人)の家の人だった。

なんでも、母の父親が残したであろう、「日記」を見たい、と言った。

僕の母はその言葉を聞いて 泣き崩れた。

そう 父親はあの大量の日記を、僕の母に託したかったのだ。

さまざまな知識、古い歌詞や、そして保山に埋めた大量の経典や文字資料のありかが、その日記には記されていたのだ。

僕の母は毎日、何日も泣き続けたと言う。
家族の者たちに、棺を掘り起こしてなかの日記を取り出したい、と言ったが、家族の者たちは「そんなことは許されないことだ」と反対した。

後に、数冊の日記が家から見つかった。僕の母は必死になってその本を出版しようとした。それは本の番号も買われあとは印刷するだけだったが、きっと政治の関係で、今でもまだ出版されていない。

今でも僕の母は「もし私が男だったら、きっと父親の墓を掘り起こして、あの日記を取り戻しただろう」と、僕に言う。

だから、僕の母は今でもうたを歌い続ける。芸術団を立ち上げたのも、
父親が残そうとしてきた「タイ族の文化」を不注意に自分がなくしてしまったのだから、
自分にできることで何かを後世に残さなければいけない、
そう僕に言う。

僕のタイ族の母は実の息子を麻薬で亡くし、次女は失恋から精神病を患った。そんな悲しみを乗り越えて、後悔に立ち向かって、僕の母はうたを歌い続けている。

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