中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
母親の願いと気持ち

今日は僕ではなく「私」と書こう。

いま私は中国の田舎で暮らしている。
ついこないだ母親からメールが来た。生みの親である僕の母親は最近59歳になった。
私がお世話になっている家の、うたやタイ族語や文字の先生でもあり、名づけの親でもあるタイ族の母ももうじき60歳になる。

私の反抗期はずいぶん長かった。高校に入ると両親の親戚とも会わなくなった。

私の母親は青森出身で女姉妹で、家が忙しくて小さい頃から近所の親戚に育てられた。
私は小さい頃から母親に連れられてピアノを習った。母親も家で生徒にピアノを教えていた。そのため家で練習する時は母親がいつも聴いていた。はじめは自分からピアノを習いたいといったとおもう。母親は喜んだだろう。でも、いつからか、何かめんどくさい、そうおもうようになった。ずるずると続けていた感じがあったが、中学校に入って音楽の先生が大嫌いで、その頃からだろうか、親に反発するようになった。たしか3年間の中学校生活で音楽の成績はとても悪かった気がする。
きっと母親が一番苦労した。母が泣いた顔を何度か見たことがあった。もちろん私も平気なわけではない。心が痛みながらも、何かに対するむしゃくしゃした気持ちがしばらく続いた。グレていたわけではなかったので、警察につかまるようなことがなかったからまだ良かった。そんなことがあったら今頃どうなっていたことだろう。

父方の親戚はみな江戸っ子のようなきがする。
父親に対しても小さい頃から不満があった。仕事に忙しく、いつも夜遅かった。いつも難しい顔をしていた。祖父をとても嫌っていたようだった。祖父は大工だった。祖母はお花にお茶に達者でずっと生徒を持って教えている。父親はあまり自分のことをしゃべらない人だからどんな苦労をしたのか知らない。祖父がまだ現役大工だった頃、背中を怪我して仕事ができなくなってしまったという。それから祖母と父親3人の姉兄弟はずいぶん苦労したと聞く。
父親と私たちは仙台に住んでいたので東京に住む祖父と祖母に会うのは長期休みの時だけだった。私が祖父と一緒にあそんだり話をした記憶は少ない。祖父は病気のためしょっちゅう部屋で寝ていた。
いつかの夏休み、私が祖父と話しをしていて、祖父がアパートの部屋の傷んだところを修理しようと道具を取り出し私を呼んだ。私は祖父のことをよく覚えていないが優しい祖父だったと思う。
しかし、父親はあの時、なにか一言を言ったのだった。私に祖父と口をきくなとでも言ったのだろうか…。
子供ながら険悪な雰囲気を感じてショックだったのだろう、何か悲しい思い出として今も覚えている。

祖父が亡くなったのは私が大学受験をいやいや受ける前日、その真夜中だっただろうか。はっきり覚えていない。私は葬式には参加しなかったが、親戚が私に父親があれだけ祖父を嫌っているようだったのに、最後の葬式では立派に経を読んで祖父を送ったと聞いた。私はその時、すこしだけ何かわかったような気がした。


タイ族の母親も苦労をした人だ。
妹以外に誰にも話さなかったつらい話を聞かせてくれる。一人の農民の子供として生まれ、戦後そして革命後の中国で育った。学校に通ったのはわずか2年くらいで、ずっとうたやタイ族文字の本が好きだった。うたを歌い始めて、それがきっかけで様々な仕事に参加した。父の遺品を知らずに棺桶といっしょに埋めてしまったこと。文革の間はずっと歌うことを我慢した。非難の的になったこともあった。文革時代のつらい恋愛もあった。

州政府州長の車に乗って人だかりの祭りの会場に連れて行かれ、赤ちゃんをおぶって子供2人の手を引いて緊張と恥ずかしさの中でうたを歌った事もあった。文革でのつらい出来事で酒飲みになった夫との喧嘩や、それがきっかけで子供が家を出て行ったことや…。そして、一番
つらかったのは息子をなくしたことだろう。

薬物に手を染めてしまい、やめたくて遠い遠い雪山のリハビリセンターに送り出した時の悲しみ、仕事でその都市の雪山近くで寒さに凍えるぼろぼろの服を着た息子を見たときの悲しみ、母の妹の息子の死後2ヶ月すぐに母の息子も突然の中毒で亡くなったこと。

息子の話は最近になってよく聞かされる。ずっと心にしまいこんで人に話すことはなかった。
息子が薬をたつように遠くはなれた雪山のリハビリセンターに送った話は聞いている私も心が張り裂けそうだった。

タイ族の母の痛みは日本の母の痛みと同じなのだ。私もその痛みを母に与えてきた。

タイ族の母は私に、どのような人間になるべきか、どんな結婚相手を探すべきか、そんな思いを語るのだ。

タイ族の母の語る思いは村落社会で育ち学んできたタイ族の文化を背景にして、自分の経験と知恵を私に語って聞かせる。

あたりまえのように日本の都会で過ごしてきた私には、日本の母が私に語る思いや願いに日本の文化的背景があるのかどうか、よくわからない。それはきっと自分が日本のことをよく知らないからではなく、自分の母親のことをよく知らないのだ。
文化は外から観察してわかるものではない気がする。文化は人を通じて、時にはその人が育った土地のイメージとその人の人生を知ることを通じて、わかった気になることができるのだろう。

親は子供が生まれた時、きっとどこかで必ず願いをもって育てている。


日本に住む母は、母がずっと抱いていた願いをメールで私に書いた。

私が生まれてひそかに抱いていた願い。


「何かに向かって一生懸命追い求めていく人間に育って欲しい」


私ももうみそじをすぎた。きっとこれからもっともっと忙しくなる。忙しくなって時間はあっという間に過ぎるだろう。私はこの歳で残された時間が多いとはまったく感じない。
二人の母の願ったような、そんな人間になっているのだろうか、なれるのだろうか。

コメント
コメントの投稿
 
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
 
 
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://asianmusic.blog50.fc2.com/tb.php/53-a9a8a0bf
この記事にトラックバックする
 
 
 
 
 
 
 
 

copyright © 2006 People, Life and MUSIC all rights reserved.

 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。