中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
さよなら、エン老師!

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僕が訃報をうけたのは9月16日の夜22時過ぎだった。

そのときちょうどある友人からメールをもらい、僕は長文のメールを返信したばかりだった。
そのメールは自分にも言い聞かせるような「どうやって生きていくか」という内容のものを書いていた。そう、ちょうど自分の出発点であり僕を救ってくれたエン先生のことを思い出していた。

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「直感に任せて飛び込むこと」

そんなことをメールに書いた。ひょうたん笛の音色を偶然耳にし、僕の身体に何かが降りてきた。そしてそれはエン先生の奏でる音色だったから。

僕ははっきり答え続けてきた。もしエン先生の音色を聴いていなかったら、このひょうたん笛を今まで続けてこなかっただろう。

よく、ひょうたん笛のどんなところが好きですか、ときかれる。
正直、僕には笛のどこがいいとか、具体的に答えられない。

僕にとっては身体と心の一部だし、なにより、この笛の音色を通じて僕は師とそしてさまざまな人々知り合うことができた。だから、いつも「笛の音色が人と人をつないでくれるところ」と変な答えを返す。

失敗を恐れず、自分を信じて、信念を貫き通すこと。

エン先生は素でそんな道を歩んできた人だった。

僕が先生に出会ったのが98年2、3月ごろ。先生が40歳を迎えようとしていたときだった。さまざまな挫折を繰り返し、先生は再起をかけて昆明に「逃げて」きた。
その前後4年、先生は村や家族から失踪したと思われていた。実はそんな失踪は一度だけではなかった。80年代はじめ僕の母たちと芸術団を発足するがしばらくして失踪している。90年代初めにも昆明に来てひょうたん笛の製作と演奏に携わるが、失敗し失踪。
これら以外にも失踪はまだ何度かある。

悪い印象を多く残したことも確かだったが、失敗しても、挫折を味わっても、先生は最後まで笛を捨てなかった。

98年、僕が初めて故郷のモンヤンを訪ね、エン先生の師である老人に会ったときも、僕を連れてきた昆明の張教授から僕が弟子であることを口止めされた。その老人も数ヵ月後、エン先生に会わずに亡くなった。
そのとき録音した古い調べ、のちに先生がこの録音をきいて身震いしながら「これが本当の古い調べだ」そういって、黙々と楽器を作り始めたことの光景をいまも覚えている。

酒の飲み方も、料理の作り方も、先生が教えてくれた。

僕が悩み苦しんでいた時期に、一度日本に帰る決意をし、先生は飛行場で泣く僕にひとこと「楽しければいいんだよ(好玩就行啊!)」そういってくれたことを忘れない。

僕は再び雲南に住み始めて2年たった。
2年前に久しぶりに会ったとき、先生はタバコもやめ、酒もあまり飲まなくなっていた。
僕と同い年で同期の弟子の妻海水(ハイシュイ)との間に1歳になる子供が生まれたから、そう思っていた。
朝は早起きして軽い運動をして健康に気を使っているともいっていた。

でも、今思い返すと、きっと先生はつらかったのだと思う。
海水も98年から今までゆっくり落ち着く時間がなかった、いつも生活は苦しかったと言っていた。事実、有名でも、妻に残されたのは生前使用していた笛と、まだ半分の借金が残っている昆明の家だけだった。そう、財産なんていえるものはないんだ。

この数年、有名になればなるほど、先生は毎日のように外で接待を受けていた。
接待といえば、脂っこい中華、そしてもてなしとして肉料理ばかり。
会社も投資が必要だから、投資してくれた社長たちとの食事、その社長が事業の接待をするときにはその人のステータスとして有名人であるエン先生が呼ばれ接待を手伝う。情に厚い人で、すぐだまされてしまう人だが、いやだとは一言も言わなかったそうだ。
休む時間もなく、そとでは演奏旅行、コンテストの審査員やなんやかんらの会議で外を飛び回る。

9月15日朝、先生は新曲を書き上げ、うれしそうに一番信頼しているタイ族の弟子に演奏させた。その弟子も不思議だったと言っていた。いつもなら、1,2回吹いて終わるのに、その日は何度も何度もレッスンを受けた。

すでにその前後から体調は急変していて、たびたび吐いていたという。薬を飲めば大丈夫だから、今日も約束があるから、検査はこんど、そんなふうに引き伸ばしていたのだ。
血圧はすでに240から180と普通の高血圧を超えていた。ああ、なぜ病院に行かなかったのだろう! なんで先生を悲しむ多くの人たちが、もっと先生の健康に気を使わなかったのだろう!

8月には珍しく僕に電話をくれて、「遊びにきなさい」と言ってくれた。
そして普段携帯メールなんてしない先生が僕にメールをくれたのもつい1週間前だった。
「9月中に徳宏にくるから」と。
先生に呼ばれていて、僕は先月から何度か仕事場を訪ねていたのだが、会えなかった。
会えなかったことがくやしい。
もっとくやしいのが、上達したタイ族語で先生とゆっくり会話できなかったこと。
5月の博物館での公演に先生はまだ若いから次にと僕の母に演奏の機会を譲ったことも、なぜ一緒に連れて行けなかったのか、そう思うとくやしい。

悔しいことはまだまだたくさんある。くやしいことをかんがえることはやめよう。

悲しくてもこのブログの記事は、最後まで書き終えよう。

9月16日、朝、エン先生は仕事場に顔を出し、弟子たちに今日の予定を伝えると、トレイで吐いた。頭痛薬を飲んで朝食をとりに行き、そのまま昼の接待にいく。午後にも一度戻ってくるが休むまもなく外出して用事をたしに行く。
そして6時ごろ再び接待に呼ばれ、レストランの席についてまもなく、先生は誰にも何も告げず、外に出てタクシーに乗った。

家のある地域を告げると、そのまま先生は昏睡状態に落ちた。タクシーの運転手は実は無登録の運転手でタクシー車は許可のある友人から借りて乗っていたらしい。たぶん怖くなった運転手は病院ではなく、そのまま派出所に連れて行き、うその個人情報を告げて逃げた。

派出所では9時過ぎまでほったらかしにされた状態だった。何度も電話がかかっていたはずだったのに。職員は9時過ぎになってようやく電話に出る。そして友人が派出所に来るとそのまま病院に送られるが、もはや手遅れ、そのまま息を引き取った。
22時10分、その50歳という若さで短い人生に幕を下ろした。

2年前から先生が僕によく言っていた。
「こんな生活は長く続けられない。時期がきたら故郷に戻ってのんびり楽器をつくりたい。」
先生の村の新居も去年建て終わったばかりだった。

きっと自分でもわかっていたはず。でもそこで足を止めて休まなかった。

17日、僕は飛行機で昆明に飛んだ。
ちょうど、海水の妹が訃報を聞いて生後30日の赤ちゃんをつれて同じ飛行機に乗っていたので僕らはいっしょに先生に家に向かった。

みな知った顔ぶれだ。老人二人もひとつ早い便で来ていた。
テーブルに写真がおかれた簡単な仏壇に線香が絶やされずにつけられていた。
僕はたまらず泣き崩れてしまった。でも二人の娘が「老人のいる前では私たちも泣かないから、悲しまないで」、と言う。

僕はこの2年先生に会うことは少なかったが、先生のお父さんとお母さんをよく訪れた。
先生の母はシャーマンで、たびたび死者の霊を一晩中歌い続けてあの世に送っていた。新しい大きな家には老人二人がひっそりと暮らしている。先生は時間が取れず、なかなか家にくることはなった。この次の正月には必ず帰ってきて親孝行する、そう先生の母はいっていた。

それから21日の追悼会、そして22日老人たちが帰るまで、僕はモンヤンの弟子たちと一緒に老人二人に付き添った。

18日老人たちと共に先生の姿を見に行った。本当に寝ているようだった。
70歳になる老人にはやはりショックが大きく、何度も吐いていた。

20日、連日のように生前親しい付き合いのある人たちがやってくる。エン先生の母はついにたまりきれなくなって、泣きながら「哭きのうた」を歌い始めた。


「大切な私の子供よ、オイオイ…
こんなに多くの友人がおまえを見に来てくれて、オイオイ…
おまえはなんて幸せなんだろう。オイオイ…
お前の死をみなが悲しんでくれているよ、オイオイ…
でも、どうして私たち老人よりも先に逝ってしまったの、オイオイ…
大切な子供よ、オイオイ…
こんなに多くの友人に見守られたお前は幸せ者だよ……」


どれだけ口で話しても、悲しみは晴れない。
先生のお母さんはうたで僕たちの心を代弁してくれる。
僕はタイ族の弟子たちと一緒になって泣いた。
僕らの悲しみは、なんというのだろう、外に向かって流れていき、その場にいるみなと悲しみが混ざってつなぎ合わさって、抜けてしまいそうな心の存在を確かにつなぎとめることができた。生きている確信を。


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22日朝、老人二人は過ごしにくい、空気の汚い都会を一刻も早く出たがっていた。
この朝、二人の老人には笑顔があった。


先生のマンションの下で弟子たちと孫娘と冗談を話して、笑顔がそこにはあった。
近所には西欧人が住んでいるのか、4,5人の小学生くらいの金髪の女の子たちが遊んでいた。
彼女たちは靴のかかとにローラーがついているシューズをはいていて、コンクリートの地面を滑るようにさーっと走っていく。

一人の女の子が、民族衣装の老人を見て、


元気な声で、「おばあちゃん『パンク』で、イカス!!」という。


先生の母は女の子たちが滑っていく姿を見て、ローラーがみえなかったから不思議に思ったのか、靴の裏を見せてごらん、という。

靴裏にひとつのローラーがついていたのをみて納得したようだった。
ちょっとしょぼんだ瞳を輝かせて履いてみたいな、とつぶやいた。
孫娘が村じゃコンクリートの道なんてないから履けないねという。

老人にもおてんばな時代があったのだから、僕はおばあちゃんがこのシューズをはいて地面をさーっと滑る姿を想像した。

想像したら何だか笑えてきて、うれしくなった。
たぶん、悲しみはこんなたわいもないことから、ゆっくり和らいでいくのだと思った。


きっと、先生は後悔していない。
ま、これでいいか、と無責任に、失踪したのだ。残された僕らはちょっぴり悲しいけど、切ないけど、それでもいいじゃない、それでいいんだね、そう考えることにした。


追悼会は17日に開かれ、多くの方が中国各地から先生の姿を一目見ようと訪れました。
まだ詳細は公表されていないが、先生の遺体は徳宏州州都芒市に埋葬され、記念碑がたてられる予定。

僕の一生を変えた恩師であり、父親であり、兄であり、そして友人でした。

さようなら、エン老師!


エン・ダーチュエン(哏徳全) 
1958年生まれ 雲南省徳宏州梁河県モンヤン郷バンガイ村出身。

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http://program.yntv.cn/category/3010201/2008/09/21/2008-09-21_630819_3010201.shtml

http://www.chinanews.com.cn/cul/news/2008/09-18/1386692.shtml

http://news.qq.com/a/20080918/002474.htm

http://news.cnhubei.com/ctjb/ctjbsgk/ctjb12/200809/t443625.shtml

http://www.sinayn.com.cn/article/490/19402.Html

http://news.dh169.net/2008/0918/3438.html

エン先生が最後にレコーディングされ7月に出版した「思念

http://www.xshls.com/music/思念.mp3

すでに別れを準備していたかのような切ない曲です。先生の故郷、梁河県のダアン族のうた「サイコ」という恋の歌垣をベースに作曲されているようです。

エン先生の生涯をつづった伝記は昨年10月徳宏州フルス文化節に発表された。
胡蔷、倪国强 2007《葫芦丝王--葫芦丝制作演奏大师哏全的音乐人生》宏民族出版社

1.jpg
コメント
なんだか、何ともやるせない気持ちでいっぱいになってしまいました。
早すぎます・・・・
苦労の耐えない生活だったようですが、その中にも幸せがたくさんあったのでしょうか?
葫芦絲とであってまだ10ヶ月
先生に会えることを楽しみにしていたのに・・・・
私は今、青島に住んでいますが、
雲南は昆明に行った時、葫芦絲の音色を聞いて何だろうこの楽器は??
と思ったのが初めてでした。
今青島で、葫芦絲を習っていますが、みんなにも知ってもらおうと思い、紹介しています。
現在では、私を入れて7人の方が習い始めました。
みんな一目ぼれです。
音と言い、形と言いもうみんな気に入っています。
先生のことは本当に残念でなりません。サトルさんの文章を見ながら涙が出てきました。本当にいい先生だったんですね。
本当に残念です。
悪い人ならもう少し楽に上手く過ごせたかも知れない
正直で嘘のない感じが伝わってきました。
 
 
2008/09/23(火) 17:29 | URL | *胡同* #-[ 編集]
約束を守らない人、とある先生の友人が言った。

きっと先生は馬鹿正直で、お調子者で、でも情を重んじる人だから、やりきれないこともいっぱいあったと思う。

どんなに有名になっても、そこらへんの地面でも寝てしまう人でした。

 
 
2008/09/24(水) 00:42 | URL | サトル #-[ 編集]
合掌
大切な先生を亡くされたお気持ちを思うと、言葉がありません。
 私とそんなに変わらない若さで亡くなられたのですね。
 やりたいこと、思い残したことがたくさんおありだったでしょう。 
 父を亡くされた幼いお子さんを痛ましく思います。
 
 歌で悲しみを表し、押さえきれない胸の思いを共有できるタイ族の人を、少しうらやましく思いました。

 ご冥福をお祈りいたします。
 
 
2008/09/28(日) 22:26 | URL | manami #-[ 編集]
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