中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
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母の息子という居場所


日本の大学や大学院に通っていたころ、いつも疑問に思っていた。大学の先生は何をしているのか? 研究じゃないの? と、言われるかもしれないが、そうとは限らない。事務や雑務も多いときく。じゃぁ、その事務や雑務の何がどうして忙しいのか? 僕らはほとんど垣間見ることはない。学生は研究のための勉強をしていればいいのだが、組織に入ったとき、組織のための仕事もしなければならない。でもその仕事とは何なのか、僕らは教えられることはない。正直、大学の先生というのはいったい何をしているのか分からない。
僕は決して軽蔑しているのでもなく、見えないこと、いや見えてこないこと、説明しないこと、いや説明してくれないこと、それが不思議なのだ。

***

1月12日は僕が日本の母に生んでもらった日である。帝王切開で予定日よりもたしか2週間くらい遅れての出産だった。

今、僕はここ雲南の片田舎にいる。僕はタイ族の母の息子としてここに住んでいる。でも、日本での顔は、本当の?顔は研究者の卵。
今日の朝も、誕生日のことなどすっかり忘れ、今後の残りをどうするか考えていた。パソコンに向かって考えを整理をする。なんだか学問という枠にとらわれすぎていて頭でっかちに物事を考えていた。

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***

そんな自分は雲南に戻ってきて忙しい2週間をすごした。母の実家、僕が村で住まわせてもらっている家の娘が結婚した。僕も肉の準備や野菜の準備、お茶くみ、料理運び、酒を注いだり、記念ビデオを撮ったり、写真を撮ったり、村の外から来る老人たちの「日本人なの?」という世間話の相手、若者との酒飲みゲーム、どれもこれも、忙しくて大変なのだけど、この村人たちの笑顔と村の子供として僕をかわいがってくれる老人たちのことを見ると、別れの切なさからか、がんばってしまうのだ。

朝昼晩の食事以外の時間、老人たちは開放的な居間でテレビをつけ、VCDを見る。みるVCDといえば僕の母が歌っているものとこの5月に日本に公演に行った時の記念DVD。日本はどんなところなの? 日本人はどんな人なの? タイ族のうたを聴いてわかるの? いろんな質問が飛んでくる。そして、僕が笛を吹いたり、舞台で解説をしているところを見ると、みなどよめいて、「おー、アイバオ(僕のタイ族の名)がいるよ! 笛を吹いてタイ族のうたを演奏している!おおー!」というのだ。村の結婚式の前後4日間、そんな毎日だった。

そして老人たちは僕の行為ひとつひとつに、「それは功徳だね、祝福がありますように」といちいち語るのだ。それは日本語で言う「ありがとう」という形を変えた言葉。「ありがとう」よりももっと意味が強い。老人は僕の行為に功徳を積んだことだといって、功徳をくれるのだ。

若者たちの多くは家を出て行ってしまった。漢族と結婚した人も多い。村の娯楽は若者がうたを歌わないのでテレビやVCDに変わった。今の人たちはお金を稼ぐことに忙しくて、のんびりのような村の時間でも一日はそれ以上でも、それ以下でもなく、一瞬として過ぎていく。

***

ここ2日、肝臓休めに母の家でのんびりしている。僕の思考は先走りすぎていて、またしても足元を忘れていた。今日の朝、僕は日本に帰ったら何を書こうか考えていた。

僕の母は毎朝早く起きて居間のテーブルで黙々とお経を創作している。春節になれば仏像寄進の儀礼や寺院新築儀礼があちこちで行われる。今年はもう七つの村からお経を書いて欲しいと頼まれている。

母が書くお経、それは日本人が連想する「お経」とは違う。
母が書いているお経は「功徳書」というジャンルのもの。仏陀の輪廻、誕生から悟りそして死、仏教の雲南への伝来、その流れをタイ族語で延々と書き、そして次に、村の歴史、儀礼主催者や寄進物や布施をする参加者たちの名前と行為を、美しい言葉の響きで綴っていく。人々の行為と信仰は母の生み出す言葉によって整理され、「仏の文字」によって文字化されることでお経となる。

タイ族の文化において最高の言語レベルと知識とセンスが必要とされる。この地域でもかろうじて両手で数えられるほどしかいない。

そして、僕の母はおそらく有史以来の、最初で最後の女性の執筆者である。

母は毎日朝に一人早起きをしてもくもくと様々な情報、人々の名前を頭で整理し、言葉の声調や韻、比喩、形容、響き、などなどを吟味して文字にしていく。姉のランが起きると昨晩の夢の話でうるさいからこの朝が勝負なのだ。

そんな姿が当たり前だった。
母はよく僕に言っていた。「タイ族のラムカム(修辞)はとても素晴らしい。」と。
そしてこうも言う。「タイ族のラムカムは私たちの世代で消えてしまう。」と。
僕はいつも思う。「母の歌声は老いで数年後にはなくなる。」と。

昼前、母は功徳経を書くのにもう少し必要な情報をたずねるため、ある村の老人に電話した。
「おーい、おじいさん、ワンシャンヤです。ちょっと功徳書のことで聞きたいことがあるのだけど、 ・・・、 だからワンシャンヤですって。 あなたは誰?おじいさん? おじいさんはいますか? ・・・、あなたがおじいさん? ワンシャンヤですよ、聞きたいことがあるの。・・・、え?あなたはいったい誰なの?・・・、おじいさんなのね。ワンシャンヤです、・・・」

こんな会話が延々とつづく。電話は人と人の距離を縮めて便利で万能にみえるが、顔が見えないからこんなとんちんかんなやり取りがよくある。本人たちはいらいらしているのだが、ちょっとかわいらしいやりとりでもある。

さて、らちがあかないので食事後、僕は母をバイクに乗せ、その村に向かった。
村につくとみなが挨拶する。母は「私は記憶力が悪いし、私のことを知っている人は多すぎて誰なのかわからない」と僕にいう。
おじいさんの家に行くと、3週間以上先なのに仏像寄進儀礼の準備のため大勢が寄進物を手作りで作っていた。毎日こつこつと準備する。みな母を見ると嬉しそうに声をかける。母は慣れているのと忙しいのでてきぱきと用件をいう。電話ではらちがあかなくても顔を合わせるとあっという間。そして書き上げたお経の前半部分を抑揚をつけて美しい歌声で朗誦した。

一節が終わるたびに村人たちは感嘆し、笑顔をいっぱいにして喜ぶ。ある老人が、「農民の私たち一族の行いをこんなふうに褒め称えてくれてとても嬉しい」ととても誇らしげだ。
文革時代は各家に強制的に設置されたラジオがあって、政府の政策や宣伝がながれたものだったが、「ワンちゃんの声を聴くのがたのしみだった」と老人たちは僕に言う。

ある老人は「初めてこの村にワンちゃんが来たとき、村人全員が集まってワンちゃんを取り囲んだ。みなこぞってあの美しい声の持ち主を一目みたいと思ったんだ」

当時を振り返り、母は言う。子供を負ぶって放送をしていた。でも外に出るのが恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかった。どこに行くのも子供を負ぶって汚い格好で、人に取り囲まれるのが怖かった。

さて、そんな母も60歳。まだまだ現役なのだけれど、昔のように長時間歌い続けることはできない。声も枯れ始めてきている。
これだけ有名でも、騙されやすいような心の純粋な母。家庭は問題があるけれど、母親としての仕事はきちんとこなす。本当に、母が遊びに行って帰ってこなかったり、別の村にうたいに行ってしまうと、母がいない家は寂しい。

この一生をうた、言葉に奉げてきた母。
同じように外の人から見ればどれだけ大変なのか分からないだろう。
僕は幸運にもこの母の息子としてその姿を、苦悩を、喜びを、教えを、様々なものを聴いて、見て、感じてきた。

民族楽器演奏家の若林さんと初めてであった時、僕につぶやいた一言を再び思い出した。
「最初の感動を忘れなければ大丈夫さ」

エン先生の笛の音、母の歌声、それこそ僕がここにいる原点で、もっとも身近なものだ。

明日もまた充実した一日になるだろう。まばたきの一瞬のように過ぎるだろう。思い出になるだろう。明日もまたタイ族の人々の声を聴き、僕もタイ族語で挨拶をするだろう。

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