中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
にほひ

平安時代の日本貴族は十二単を身にまとっていた。          IMG_3468.jpg

色のグラデーションを「にほひ」(匂い)といった。

昔は身体を洗うのはたまにだったため、お香をたいて匂いを誤魔化した。言い方を変えると、衣服のように香りを身にまとっていた。
貴族たちの衣服は色鮮やかな十二単。色とりどりの布を身体にまとう。香りが衣類とおなじまとうもの、と考えられてもおかしくない。そして、香りはその場にたちこめる。香りは人にも伝わり、その人、場を一緒に包み込んでしまう。侵食してしまう。

  ※  写真はタイ族の晴れ着のスカート
それは色にもいえるのではないか。
色とりどりの布は見る人を酔わせる。ゆっくりとした空間に、その色鮮やかな布をまとった人の姿を見れば、その色がだんだんと拡散してその場を包み込む、もしくは調和する。そう考えると、色が場や空間を包み込むのは香りと同じだ。

藍染のタイ族の布。
布にはきれいな文様が編みこまれ、洗うたびに浮かび上がる。アフリカでは布の模様や刺青には迷路のような模様があった。それは精霊が身体の中に入り込まないように、その迷路で身を防ぐというものだ。匂いにも魔よけの匂いがある。

熱帯のアジアでは藍染の布を身にまとうと、藍の香りのような匂いで蚊に刺されないという効果もある。そもそも色は自然の植物から生まれ、その植物独特の匂いは布にもこびりついたのだった。我々はかつて植物から作られた「にほひ」(色と香)をまとっていたのだ。

そして同じように、色や香りはものにうつる。色は抜け落ちて別のものに付着してしまうことがあるし、抜け落ちて色が消えることもある。香も人から人へうつることもあれば、時間とともに消えてしまう。

我々は視覚をあまりにも過信している。

「見る」ことは「在る」ことだと、思い込んでいる。

でも、本当は見えているものも本物なのか分からない。
そして、見えているものも時間とともに消えてしまうのだ。

僕はまだ、村の人たちや母たちの顔を想像して「見る」のが切なくて怖い。
でもなにか、温かい人のぬくもり、そんな感じ、感性がいまも心に残っている。
コメント
 帰国されてひと月、どんなふうに過ごされていますか。

 記憶の底に沈んでいたものが、においによって突然よみがえってくることがありますよね。見たものやことばは記憶したことを意識するけれど、無意識の中に記憶するにおいや肌触りのようなものが、実はとても強く刻み込まれているものなののかもしれません。
 
 
 
 
2009/05/17(日) 13:51 | URL | manami #-[ 編集]
あたりまえだったものが、あたりまえではなくなり、

あたりまえではなかったものが、あたりまえになっていく・・・

そんな1ヶ月でした。

匂いは言葉にしていないと、忘れやすいものも確かで、村の香りの強い草はきちんと名前をおぼえておかないと、忘れてしまう。

匂いを具体的に言い表すことはできないけど、それが調理のどんなアクセントをつけるのか、それを知っていくと、あの草があれば・・・と、思い出してしまいます。
 
 
2009/05/18(月) 17:23 | URL | サトル #-[ 編集]
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