中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
「きよう」であること

先日、友人の紹介で、漆をあつ扱う人間国宝のおじさんにお会いすることができました。
ありがとうございました。


その日の午後、おじさんのお家にお邪魔して話をうかがい、作業場や作品を見せてもらった。

柔らかい声に迎えられ、家の天井をふと見上げると、懐かしい竹ひごで編んだパターン模様が・・・。
タイ族の家でも竹で床を編む地域がある。こんな風に竹で編んだ天井を見て、ふと、こんなものづくりの原点が、ここで寝転がればいつでも目に付くのだと感じた。
僕は竹細工を習い始めたとき、この竹ひごを並べて編んで模様を作ることをまず学んだから。

RIMG1227.jpg

※ 織ることと竹を編むこと、理は同じだった。
人間国宝と呼ばれるのだから技は確かなもの、おじさんののんびりした気さくな口調から、僕は技よりもそのおじさんのものや人、技に対する考え方に興味を引かれた。

今でこそ人間国宝と呼ばれる人たちの技は特殊視されるけれど、かつては技を受け継ぐ職人は生活のなかで人に使われる血の通った「もの」を作ってきた。雲南の片田舎で僕がちょっぴり学んだ技術は紛れもなく生活のなかに深く根を下ろしていたものだった。

なにも無い。
なにも無いところから有るものを作る。

ものは無いなら作ればいい。村では自然と向き合い、自然と対話しながら必要なものを編み出す。対話しようとするその心があったから、自然と人々はお互いに協力した。自然は神を宿らせ人を守ったりしかったり、人から尊ばれる。人は自然のものと対話して工夫を重ね、そこに技や知恵も生まれた。

いつからか、日本は便利になってものがあり溢れ、人は知恵を絞らなくなった。
発明者と後に呼ばれる人々は僕たちの暮らしを便利にしたけど、そのかわり、人がものと対話する機会を奪った。めんどくさい、時は金なり、なんて言葉が使われて当たり前の世の中だ。


このおじさんが国宝の復元にたずさわったときのことをちょっと語ってくれた。
かつて人々の寿命は50そこらの一生、道具だって手作りのもの。化学薬品も無ければ電気も無い。

復元するために、おじさんはものと対話を真剣にする。
あの短い一生の中で、どうしてこんな美しいものが生まれたのか?
どんな材料を使って?どんな道具で?そしてどんな明かりの下で?昼と夜仕事をしたんだろうか?
科学理論なんて無かった時代のもの。あったのは人々の身体にしみこんだ経験だ。

僕は興味があって尋ねた。「漆にはなぜ紫色が無いのか」。紫は皇族にも好まれた聖なる色。それが漆では見かけない。僕はその色が無いことが不思議だった。

おじさんの答えは簡単に、「できないものを無理してつくらなかったんでしょう」と。

無いものから有るものをつくる。

でも、人々は素材や道具といったものと対話をして、できないこととできることを理解していく。
背伸びはしない。

とにかく洗練に洗練を重ねた日本の伝統工芸は背伸びではなく追求だったのだとおもう。おしつけでもなく、人とものとの深い対話だったのだと思う。

一方的に話しかけて、命令してきたのではない。

ただ、たまに権力によって強制されて生み出された技もあっただろう。
そして人の欲。
現代社会の新しい作品、無いものを「無理やり」有るものにして「変」を追求する。
大阪の万博公園に咲いている「バラ」とか、いい例だ。

きっと、昔はからだがものに触れ、そして心で対話をじっくり行うことで理は発見されてきた。
必要最小限の基本の基本。それで生活に十分なもの。

タイやラオスで自分が暮らす日本庭園をつくり服をデザインしているおばさまの一言を思い出した。
「ものを並べるとき、ものとものの間、ものを置く場所にはビューティーポイント、美の点があるのよ。」
このおばさまの遊び心あるタイの家に作った日本庭園は石や植物との対話から生まれた洗練された美しい庭だった。


また話は飛ぶのだけど、最近まで大阪の国立民族学博物館では千家十職という特別展が開催されていた。
今までに無い、いい企画だったと思う。茶道具を作る十家に民博の世界各地から集められたものが収められた倉庫を散策してもらい、インスピレーションをうけた。ものに「呼ばれた」収蔵品を自分の作品と一緒に展示し、かつ職人が新たに自分の作品として自ら技をふるい復元・再創造する。

そのなかの職人がこんなことをいってた。
たしか、「僕らは月が光っていると思う。でもほんとうは太陽の光が反射しているだけ。でも私たちは月には光る力があると思っている」、と。


ものづくり。
雲南の村でもそうだったように、「器用」な人ってあたりまえだった。だれでもものがつくれてあたりまえ。

人間国宝のおじさんは、
僕らの技はあたりまえだったと言った。
本当に「器用」な人って、「昔々は口がうまい人のことだったんだろう」って、そう思うんだ。


ムム・・・、たいへん深い言葉。漢字の「器」は口が4つ。
昔の人は生きるために無いものから有るものを作る。ただし、政治やシャーマニズムは口をつかう。

口は、手や身体で物事を考えて理解して生きる人々とは異なる回路が必要だ。

政治家やシャーマンは頭や第6感で物事を考えて理解できた人々だ。

彼らの技は?

それは物を作り出すことではない。シャーマンは言葉を巧みに操り、「音」や「文字」「うた」を通じて、人々に尊ばれ恐れられてきたのだ。


今の僕らの社会で、本当の「きよう」って
なんだろうか・・・。

僕にはその答えがまだわからない。




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