中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
「渋い」と言葉が口につくこと。


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僕は久しぶりの日本の夏を新しく引っ越してきた部屋で過ごし始めた。
一人で暮らすこと、それに慣れることは大変怖いことだと感じている。だって、村にいたときは皆と過ごしながら、ややこしい問題もあったけど、それでも他者と、近所と何かしら協力して生活していた。困ったこと、たいていは何かの「ワザ」、一工夫の問題、があると、近所の人々は知恵を出し合って教えあう。

タイ族は盆地に住んできた。五日に一度たつ市では山に住む人々が山の幸を持ち寄り、僕らはその山の幸を食するという恩恵をうけた。山の人々は朝明るくなる前から低地に歩いてやってくる。そして山の人々は山の人々で、彼らの必要なもの、それがいまではただの「お金」になっているのだが、それらを日が沈む前に山に持ち帰る。

生きる知恵、僕はそれが環境との会話の方法だと思っている。特にこの地域では、それは自然と会話する知恵だ。様々な植物の名前を知っていること、見分けられること、それらがどのような効用、味、用途があるのか知っていること。

低地のタイ族もまた市で手に入れる山の幸を上手に調理したり、薬草にしたりする。
でも、それもいつまで続くか分からない。

僕が行っていたひょうたん笛の故郷もまた小さい盆地だった。そこの山の民、カチンとアチャン、明清朝時代の兵士の子孫である漢族たちが昔は様々な山の幸を低地に持ってきていた。いつからか、政府の移住計画や換金作物栽培の推奨によって山の幸は市ではほとんど見かけなくなってしまった。笛のふるさとでは山がもうすぐ目と鼻の先にあるのに、山の幸を利用することはなくなってしまった。山の幸に触れる機会がなくなれば、自然と民俗知識はつたわらなくなる。

そしてそれらを用いて生活に生かしてきた知恵、それも機織や染色などの技術、それら道具を作るワザも忘れ去られていく。

僕のタイ族の母は山の幸が大好きで、いつも山の幸を使って食事を作った。カチン族の父も気が向くと山の幸をふんだんに使ったカチン料理を振舞ってくれた。
ある日、僕の笛の里からやってきたタイ族の友人が家で食事をした。彼は母が調理したタイ族料理が口に合わなかった。僕が何気にこの地域で食べていた料理と、笛の里で食べていた料理は調理方法や調味料こそ似たものだが、笛の里のタイ族が料理に扱う素材が変わってしまい、それによって味覚も変わってしまったのだ。


先日、僕は写真家の友人の誘いを受けて大阪の中国茶屋にいった。彼は西双版納からチベットへと抜ける「茶葉古道」の取材を長年続け、ようやくその成果が実りつつあり、写真の展覧会を計画していた。写真をとるという目的をもちつつも、彼の「一瞬」に出会おうとする意気込み、その先に表現しようとしているものを見据えていること、それは動画に慣れた僕には刺激的な考えだ。

そして、ここ中国茶屋のオーナーとはこれまでも何度もお誘いを受けて笛の演奏をさせていただいた。彼女の何気にものに触れて歩いたりする癖?に僕は心の温かくなるものを感じる。

僕らが話をしているとき、写真家の友人が中国の野菜の話をした。中国の野菜は土の味がする。そう、中国だと何かと農薬だの問題をとりただされるが、中国の野菜には大地の生命力があふれている味がした。日本はどうだろうか? 日本の野菜は傷のない、できたものも形や状態が美しいものと、なにか食物としての根本的なものがずれている。友人は「種のないブドウ」が日本にあることがどうも許せないらしい。僕も同感だ。

そのオーナーが、ふと、
「ブドウの種をたまたま食べちゃってあ、渋い渋いものをたまーに食べてしまうことも、いいんじゃないかしら」
そう言った。


種をうっかり噛んでしまい、「渋い」という言葉、その感覚が口につくこと。

人はあの「渋い」という味覚を表現できること。

「渋い」という舌に残る生々しいあの「触」を、さらり、とつぶやく、それがあたりまえの・・・。



舌に邪魔なブドウの種が転がること、うっかり噛んで渋味が口にひろがってしまうこと。それがどれだけ大切なことなのか。
どれだけ生きていることを実感できることなのか。

村の人々はとっても苦い野性味たっぷりのお茶をたくさんコップに入れて、これでもかっ、という苦いお茶を飲む。
もちろん、これまでの悠久の歴史の中で、人々はお茶を洗練させ、そこに酸味や甘味が表現されるお茶も育ててきた。

ブドウの種をなくすこと。それはささやかな親切だったのかもしれない?
でも20世紀は「無理」をする発明者ばかりだ。便利になるという発明。
それは洗練ではない。対話ではない。命令だ。強制だ。

そして、僕らは生々しいあの命の刺を、ストレスを楽しむことができなくなった。
命の刺というストレスは、みんなで何気に共有できるものだった。あの村での生活では僕はかろうじてそういう体験を、村人にとっては無意識の何気ない経験を自分自身の感覚で得ることができた。

僕らが共有するストレスは、ときとして詩的な歌も生みだし、耳で、身体で何気に味わうことができたのだ。

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