中国雲南、タイ、ラオス、ビルマの人、生活、そして音楽。 ひょうたん笛(葫芦絲)演奏者が綴る「おと」、「ことば」  
お知らせ
 
 ☆ 国立民族学博物館にてマルチメディア番組『徳宏タイ族のうた』公開中
    (2010年6月より みんぱくビデオテーク)

 ☆ 「これまでのライブ履歴」

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音のある世界と音のない世界


音の世界を、
タイ族のシャマンが語る。シャマンが憑依儀礼において「うた」をうたいながら異界について語る。

僕達の人間世界には音が存在する。僕は音を聴くことができる。

僕達が行きたいと思っても行けない、見ることもできない異界にも、音が存在する。でも、僕はその音を聴くことができない。
世界と語りかけること①  ビデオ編集で思い出したこと

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イギリスでの上映とは別の新しい映像を発表する機会があって、今僕は数年前に撮影したビデオの編集にとりかかっている。作品の内容は2008年5月にワン母たちが日本に来てタイ族のうたをうたったこと、俳句のように移動先で即興でうたで印象や感想を記憶したこと、そのひとコマを作品にしたい。

過去の記憶を映像を見ながら再経験できることは、ここまで嬉しいことだとは思いもよらなかった。なぜなら、当時、ワン母が僕に独り言のように、僕にはただの独り言のようにしか聞こえなかった発言の数々が、今になってようやく理解することができるようになったからだ。

(しかし、画面をみていて僕に強烈な印象を呼び起こすのは、画面に撮影されていないその前後の記憶が脳裏に蘇り、その時の感覚からだ)

ワン母が日本を歩いて見て、聞いて、感じていたこと。ワン母は日本に来てただ受動的に旅していたのではなかった。環境の違う日本において、積極的に世界と対話しようとしていた。



『…
まどろみかけた私の眼に、海辺の広い緑の砂地がうかんでくる。
その紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている。

思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。
それは地上の道のようなものである。
もともと地上に道はない。
歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
                             …』


希望はあるのでしょうか?
ただ、心に焼きついた、あるいは消えかけた、私の心や感覚を熱くする情景が、心の中にのこっているのなら、
それを忘れないでほしい。
そして、きっと私の、あなたのそばにも、誰か同じ感情を抱く人がいることを。

宮城県名取市閖上地区13日午前10時57分 恒成利幸撮影

音で触れる 音に触れる


音楽する、とはいったいどういうことだろう。
長らくひょうたん笛を演奏していても、いまだにその根っこの、さらにその先の何かが、わかるようで、わからない。

もうずっとCDを聴いていない。
日本に戻ってきたら、いやでもスピーカーの音の世界に浸ってしまうが、自分から音楽を聴こうという気にはならない。だから家にはテレビもラジオもおいていない。

日本を離れて暮らしてから、スピーカーの音の聴取を身体が受け付けない時期があった。
それも、ひょうたん笛を自分で演奏するようになってからだった。

今でも演奏でマイクを通すことに抵抗がある。
やはり、一番いいのは「生」音だ。

ライブを聴いていても、生の音の暖かさ、優しさ、柔らかさが、直に音を聴く僕を包み込んでくれる。

いや、きっと包み込むのではない。
音がそこから聴こえてくるのではなく、僕の身体のなかに鳴っている。
僕の身体のなかで動き、僕の心に触れる。

RIMG3023.jpg

ねじれることば


伝わらないことば。
ことばはいつも伝わらない。
どこかでへそを曲げてしまう。

距離が離れていても信じあえると信じる恋人、友人、家族…。
どこかで、ことばがねじれる。
音が空間がゆがむように。



 
 
 
 
 
 
 
 

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